●「中庸(中行)」「狂者」「狷者」、そして「郷原」
山内 おさらいすると、中行(中庸)というのは孔子が、そして江戸時代の多くの政治家や思想家が理想とした存在だということ。これは中庸を保つことができる人であり、これが一番だという。
二番目は何かというと、これが狂者だと孟子は整理している。分かりやすくいうと、元気がよくて、志も言語表現もはっきり、表現能力もはっきりしている。そして志も大きいような人物。これが狂者である。
そして、三番目は何かというと、狷者。狷者というのは、間違ったことをするのが恥ずかしいと(考えている)。ですから間違ったことやそういう行為、「不義の行為」という言葉を使うと思いますが、それを恥じて実行しない、潔癖な人物。これが狷者だというわけです。
ところが、実はこの下にもう一つあるということが大事です。その四番目は「郷原」(きょうげん)と言います。「きょう」は郷土の郷、「げん」は原っぱの原です。
郷というのは郷里の郷ですから、郷原というのは小さな村や小さな地方、田舎のような狭い世界では君子かもしれない。あるいは人の模範になるかのように思われるかもしれないけれど、そういう人は得てして世の中と摩擦を起こさない。世の中というのは汚れているわけだけれど、そういう汚れている世の中の現実に自分が合わせる、あるいはそこで調子を合わせる。そして自分がさながら清潔、廉潔な人物であるかのようにふるまう。これが郷原だというわけです。
ところが、世間の人たちから見ると、自分のことを好意的に見ているのだろうと思うわけです。そして、自分でもそう思っているうちに、それでいいのだと思うようになる。つまり、小さい数と小さい範囲の政治をやるのならいいけれど、世間が広がって人々の数が多くなっていった場合、そういう物事の考え方や信念の持ち方はちょっと違うのではないか。
そして、一番大事なことは、見た目、あたかも中庸(中行)と、この郷原とは似ているというところです。
●似て非なる中庸と郷原
山内 人と摩擦を起こさない、人に対して気に障ることを言わない。しかし、中行(中庸)の人というのは実は言うべきときには言うし、決断するときはする。
ところが、この郷原なる存在というのは、ともかく摩擦を起こしたくない。とにかく人々から好かれたいということであって、小さな...