●「六十にして耳順ふ」は愉快な人生プラン
最終回の今回は、皆さんもよくご存じの言葉から始めましょう。
「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」
渋沢もこの章句を再三再四、いろいろなところで引用している。ということは、やはり自分の生きるプランとして、この孔子の生き方を模範としたのだなあ、ということが分かります。
私も50年間ぐらい、この生き方をずっと読んできて、こういうふうになっているとは言いませんが、こういう生き方というものはあるものだと考えながら、この文章をずっと読んでまいりました。また、「人生論を語る」ような機会があれば、必ずこの章句を持ち出して、解説をしています。
そんな私が最近、非常に感じるのは、実にうまくできた人生計画だということです。何がうまくできているかというと、年を取れば取るほど愉快になるようにできていることです。「六十にして耳順ふ」というのは、自分にとっていやなこと、「もう分かっているよ」ということを言われたり、自分の欠点をズバズバ言われたりするときにでも、耳が逆らわない。「うん、そうだよな。うん、そういうところが自分はあるんだよ。いや、ありがとう、ありがとう」と言えるぐらいの心の広さを持てということです。もっと言えば、自責というものを長年持ち続けていたかどうかが問われるのが、60歳だと言っているわけです。
70歳になると、もっと幅広くなります。「心の欲する所」、つまり「今日はこうやって暮らそう」とか「こういうところへ行ってこういうふうにしよう」というプランですね。私も70代ですが、今どきの70歳ぐらいだと、この通りにするとすぐ警察のご厄介になってしまったりする例が多く見られます。
しかし、「心の欲する所に従へども、矩を踰えず」です。「矩」は、今でいう法律であり、世の常識です。70歳になると、規範がもうしっかり入っているから、何かというと問題を起こすようなことはなく、規範の内で心広々と生きるような者になっている。名人の生き方といってもいいです。
そういう境地になってくれということで、渋沢の晩年を見ていても、この言葉通りになっているのではないかと思うところです。
●学びの連続を続け、卓越した人生を送った渋沢
さて、何といってもここに帰らざるをえないのが、『論語』の巻頭の一言です。
「子曰く、学びて時に之を習ふ。亦説(よろこ)ばしからずや。朋、遠方より来る有り。亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや」
これは一言でいえば、人生は学びだと言っているわけです。渋沢の人生も、学んで、学んで、学びの連続でした。学んだ末にどうなのかというと、「時にこれを習ふ」で、実践する。それがうまくいって人に役立つ、喜んでいただく。こんな喜びはないのではないかと言っている人生です。
渋沢の晩年を見れば見るほど、日米関係が非常に重要になります。渋沢は日米関係に腐心して、日本とアメリカがうまくいくほうがいいといい続ける。そして、かなりの年齢になってアメリカへ旅行に行くわけです。そのくらい、日米関係を非常に重要視した人です。
もう一つは、何といっても社会貢献に非常に生きた人です。渋沢ぐらい、世のため人のために生きた人はいません。渋沢という人の卓越性は、彼の人生そのものからうかがえるということです。
●渋沢栄一が考える「起業するときの4つのチェックリスト」
最後に近づきましたが、渋沢は500社余りの会社を設立しました。これも偉業ですが、それ以上に注目したいのは、これらの会社の中にはいまだに継続しつづけている会社があることです。これはよほど設立・創立のときの志が良かったとしかいいようがありません。
では、渋沢は会社を創業・起業するときにどういうチェックをもって審査をしたのかということが問題になってきます。ここからは、それを申し上げて終わりにしたいと思います。
渋沢のチェックリストは4つありますが、1つ目が道理正しい仕事か。これは何を言っているのかというと、一点の曇りもないことです。やましい、あるいは危険な仕事、下手をすると社会を悪いほうへもっていってしまうような仕事でないことをまず見極める。簡単にいえば、社会貢献できる、人間を進歩向上させる、あるいは社会を進歩向上させるのに役立つ仕事かどうか、ということです。
渋沢の説いているところを見ると、現代では「これこれの悪いところもあるが、かくかくのいいところもある」というような言い訳じみ...