●『論語』を学ぶ時間に恵まれた江戸の豪農たち
渋沢栄一といえば『論語』というぐらいで、3、4歳の頃から渋沢は『論語』を学んでいました。前半から申し上げてきたように、武家の教養として『論語』は核をなすものでした。幕末に近づくにつれ、武家が政治を司っていくことの困難さが際立っていき、教養の必需性も浮かんできました。『論語』に代表される「四書五経」、また儒家の思想というものは、その基本にあったわけです。
渋沢のような農民が、どうして『論語』に長けていたのかというのは、前半でふれたように、豪農という立場に自由時間があり、学ぶ時間がたっぷりあったこと。もう一つは、武士のように身分制度にがんじがらめになって、そこからなかなか這い出ることができない立場ではなく、当時は農民のほうが自由奔放に生きられたのではないかというところが考えられます。だから、あちらやこちらへ学びに行くことができたのでしょう。
渋沢と同年代の新選組なども、主要な幹部は農民出身でした。農民出身でいながら武士よりも腕が立ったのは、それだけ剣術修行に明け暮れる時間があったということでしょう。彼らも藍の本場や絹作りのお蚕の本場のようなところに生まれた人ばかりでした。幕末の頃になると、農民のあるパーセンテージを占める豪農の人たちこそが「自由人」として時間を自由に使い、一番チャンスがあったといっていいと思います。
(話はそれましたが、)まず渋沢が儒家の思想に非常に長けていたことが重要です。
●『貞観政要』を愛読した論語の師、尾高藍香
渋沢と『論語』についてお話しするときに忘れてはならない人物が一人います。彼は4、5歳までは父親に手ほどきを受けていましたが、その後元服する15、6歳までの間は親戚の尾高惇忠(あつただ)という人のところへ漢籍を学びに行っています。親戚のおじさん(編注:実際の関係は従兄弟)のところへ通っていたわけです。
さらに、この尾高惇忠の妹と彼は19歳で結婚するわけですから、義理の兄にもなるという関係の人です。この尾高惇忠、通常、「尾高藍香(らんこう)」と呼びますが、藍の香りと書くように、まさにこのあたりの地域を代表する教養人でした。尾高惇忠(藍香)師の教養がどの程度であったかは、渋沢がいろいろなところにエピソードを残し、卓越した博学ぶりについて具体的に書いています。
尾高藍香...