●孔子が「吾が道」とした「忠恕」とは何か
そこで今回は、『論語』の章句に入りたいと思います。
渋沢栄一が『論語と算盤』に数多く挙げている『論語』の言葉の中で、一番多いのは「忠恕(ちゅうじょ)」という言葉です。「忠恕」とはどういうものかを知るため、まず最初に出ている文章を読みましょう。
「子曰く、参(しん)や、吾が道は一(いつ)以て之を貫く。曾子(そうし)曰く、唯(ゐ)と。子出づ。門人(もんじん)問ひて曰く、何の謂(いひ)ぞやと。曾子曰く、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみと」
曾参(曾子)に対して、孔子があるとき、こう言った、と始まります。「吾が道」(自分が一番大切に思い、これこそが道の非常に重要なところではないかと思う筋道、道理、道義など)は、「一以て之を貫く」(一つのことで貫かれているのだ)と。それに対し、孔子に長年付き従ってきた高弟の曾子は「そうですね」と言います。さて、先生(孔子)が出て行ったのを見た門人は、先の謎かけのような対話の理由を聞こうと、「今、何をおっしゃったのですか」と訊きます。先ほどの謎の問答で言われた「一つ」とは何なのかを聞いているのです。それに対し、「先生の道は忠恕のみだ」と答えたという話です。
「忠恕」とはいったいどういうものかということをお話ししなければいけませんが、これはもう渋沢そのものであると言ってもいいでしょう。まず何かというと、彼は常に相手の立場に立って考えることを当たり前にやってのける。思考回路がそのようにできている。「思いやり」のようなことをあえて言わなくても、相対したときに、相手が訴えかけようとしていることが分かる。そして、その人の立場になって、訴えかけを聞いてやろうとします。もっといえば、何か手伝おうという場合も、相手の立場を考える。要するに、相手が望まないこと、いやだということは決してやらない。「忠恕」の中には、そういう意味も含まれます。
前回「仁」を、多くの人と関わり合って生きていかなければならない世の法則であると申しました。その心構えとして大切なのが「忠恕」ということです。
●渋沢が慕われたのは「忠恕」の心に満ちていたから
「忠」は何かというと「中の心」で、「偏りのない心」です。偏りのない心とはどういうものでしょう。簡単にいえば「い...