●豪農出身の渋沢栄一には本を読む時間があった
今回は、渋沢の人生に戻ります。渋沢が17歳になった時、彼にとっての転機だったのではないかと私が考えることが起こります。代官から呼ばれて、金の提供をせよ、と申しつかったことです。
それまでは、父親が代官との付き合いを行っていましたが、「もう17歳にもなったことだから、代わって代官所へいってくれないか」とでも頼まれたのでしょう。栄一が代官所へ「何でありましょうか」と顔を出すと、殿様の娘が今度結婚して輿入れすることになった、ついては諸費用がかさむため、みんなにそれを分担してもらおうと思っている、と言われるわけです。
渋沢は、第1回で申し上げたように貧農ではなく、どちらかというと豪農でした。豪農の人には何が与えられるかというと自由時間で、暇な時間があるわけです。貧農は、とにかく朝から晩まで働いて暮らします。農家というと「時間がない=いつも働いている=勉強の時間がない」ということで、「本を読む時間がない=教養がない」ところまでつながりがちなのが、江戸の農民観でした。
しかし渋沢に限っては(というよりも私はかなりの数のそういう農民がいたと思うのですが)、裕福であったため、朝から晩まで働く必要はなかったのです。肉体労働をしなくてもよくなるとどうなるのかというと、人間の特性としてやはり学ぼうということになります。
●代官所に楯突いた17歳の渋沢
渋沢も3、4歳の幼い頃から親について『論語』を学ぶなどを続けていました。ですから、17歳にもなると四書五経を全て学び終えた一廉の教養人になっています。したがって、世の中のことが相当よく分かっていて、代官所で次のような感慨を得ました。
なぜわれわれが苦労して働いたものを、いつもいつも税金として要求されると、それにしたがってハハァと言って差し出すのか。百歩譲って出すのはいいとしても、出させるほうが権力として威張っていて、出すほうが卑屈になっているのはどうもおかしいのではないか。
そのように思っていたところ、代官所では割り当ての話が進み、某家はいくら、某家はいくら出してもらう、という話になっていた。普段の思いが爆発してしまったのでしょう。彼は即答を避け、「今日は代理で来ておりますから、家に帰って親父と諮って返答したい」と答えます。
代官は激怒して、「何を言っているのだ。代理だろうと何だろうと、来たからにはイエスと言って帰るのが代官と農民の関係なのだ」と、イエスの返事を迫ります。そうなればそうなるほど、肝の太いところがある栄一も、「いや、断じてそれは言えない」と突っぱねる。それで、なんとかごまかして帰ってくるわけです。
帰り道、彼はつくづく考えます。「何ということだろう。この世の身分制度というものは根本的によくない。なぜ徳川幕府がこれほど威張らなければいけないのか。われわれを人間だと思わないような態度は、いったいどこからくるのか。そんなにもわれわれは徳川幕府にかしずく必要があるのか」。そのように彼は思い、身分制度に対する疑問は終生ついてまわります。
●「農」から「士」になり海外へ出て学んだもの
結論から言うと、彼はやがて武士になる。士農工商でいえば、農から初めて士になるわけですが、その後は工商にもなる。この身分を一生かかって全て体験することができたのも、その土台に身分制度に対する疑問があったからだろうと思います。士農工商の身分制度では、工商という一番下の立場が何とも情けなく見られている。なぜそんなことになっているのか、ということだったのでしょう。
ともあれ彼は一橋家に仕える武士になる。そして27歳になった頃、フランスで万博が開かれたため、彼は徳川昭武に従ってフランスに行くことになります。フランスへ行ったこともそうですが、万博というのは近代技術の博覧会のようなもので、当時の世界レベルが非常によく分かるという意味で貴重でした。
彼が生まれた1840年がアヘン戦争の年だったという話を第1回の冒頭にしましたが、当時は船で横浜を発ち、上海、香港をまわります。そうすると、「あの清国がこのような状態なのか」という現状にふれ、国家というものをもう一度考えざるを得なくなります。フランスまでの旅路で多くの寄港地に立ち寄り、いろいろな人間が生活している、いろいろな民族の国家があることがよく分かったというのが、往路の与えた意味でした。
そして万博の帰りに、これもまた彼の人生からいえば画期的と呼べる体験をすることになりました。ベルギーへ立ち寄った一行は、国王に「よく来られた」と迎えられます。そして、「わが国の施設で何が一番気に入りましたか」と聞かれる。昭武が「鉄工所です。わが国にはあんな大きな規模の鉄工...