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●軍師と補佐役の機能的すみ分け
―― 前回、軍師の役割として黒田官兵衛のお話が出ましたが、その前には竹中半兵衛という軍師がいました。機能的に分けていくと、それぞれどんな機能で回っていたのでしょう。軍師役という存在がいて、補佐役として秀長がいるのであれば、どのあたりを主に秀長が見ていたのか。彼らの違いについては、どうご覧になりますか。
小和田 これは、やはり時代によって違うと思うのですね。「豊臣政権」という形で、ある程度全国政権的なものに近づいた時点では、戦いのほうはむしろ黒田官兵衛たち軍師クラスに作戦立案をさせ、秀長は内政面、つまりその後の領内経営のトップにいるような形でした。
これも有名な話で『大友文書』に入っているのですが、大友宗麟が秀吉のもとにある依頼をしにやってきた時、「内々のことは千利休に相談しろ。政治向きのことに関しては俺(秀長)に相談しろ」といった言い方をしていたということです。そういった意味では、もう完全に秀吉の分身のような形で、秀吉の意を体していろいろ動いていたのが分かりますね。
―― そうすると、人事面を見ていたということもありましたけれども、対外的な部分でも、どう評価するかとか、どういう褒美なりを渡すかということに関しても、ある程度は秀長が管理をしていたということですか。
小和田 そうでしょうね。ただ、そのへんはあまり資料としては残っていません。「知行充行(ちぎょうあてがい)」などは、一応全部秀吉の名前で出るのです。ただ、秀吉ひとりで考えていたわけではなく、弟・秀長との相談の上で、この武将にはここで一国あげようという下相談は当然していたでしょう。しかし、表向きの歴史に残る資料としては秀吉の名前で出ますので、今までは全部秀吉がやったと思われてきた側面があります。
―― 例えば『大友文書』の中で千利休〈宗易〉の話が出てまいりましたが、彼はどういう役割を果たしていたのですか。
小和田 彼は、単なるお茶道を教えるお茶の先生ではなくて、内政顧問のような存在でした。要するに、お茶を通して利休も相当な人脈を持っているわけですよね。秀吉家臣団のなかをうまく回すような役割を、お茶を通して行っていた。だから、大友宗麟なども、ちょっと困ったことがあると利休に相談しなさいよ、といった言われ方をした。そういう側面があるのではないかと思います。
●秀吉の家臣団のバランスはどこから生まれたか
―― そのように見ていくと、さすがに天下を取っただけのことはあって、秀吉の家臣団のバランスというのはなかなか面白い具合に出来上がっていたということですね。
小和田 結果論かもしれないですが、それも秀長が生きている間のことなのですよ。天正19(1591)年の正月(1月)22日に秀長が亡くなって、そのバランスが崩れていく。ですから、私はやはり秀長が生きていた時代が、秀吉にとっては極楽の時代だったなあという感じがするのです。
―― 秀吉は、今の言葉でいうとプレイングマネージャーといいますか、自分でどんどんやってしまう。人を動かすよりは、まさに「人たらし」として自分が率先して交渉したりとするので、やはり抑え役として守ってくれる人がどうしても必要なタイプのリーダーだったというところでしょうかね。
小和田 はい。さっきも少し言いましたけれども、自分はちょこまか、すぐ走ってしまうタイプだから、ちゃんとどっしり構えて、「いや、それは違いますよ、兄さん」というようなことが言える人がいたかいないかは大きい。
私はよく講演のときなど、豊臣政権を1台の自動車に例えてお話をします。秀吉が当然運転席に座ってハンドルを握り、アクセルを踏んで、車を前へ走らせるわけです。隣の助手席に、ブレーキ役兼ナビゲーター役がいて、「お兄さん、これじゃ方向が違う」とか、「スピード出し過ぎだよ」とチェックを入れる。そのチェック機能があったから豊臣政権という車はうまく走ったのですが、チェック機能がなくなった途端に、いってみれば暴走が始まってしまった。これが天正19年以降の秀吉です。
いろいろな人からよく「先生、武将として秀吉は好きですか?」と聞かれることがあり、「ああ、秀吉は好きですよ、若い頃はね」と答えています。晩年の秀吉は、どちらかというとちょっと暴君になって、周りが見えなくなってしまった。だから、若い頃の庶民的な色もなくなってきます。そういった点でいうと、やはり秀長が補佐役でそばにいてくれた時代が、秀吉にとってちょうどいい時代だったのかという感じはしますね。
―― これは面白いですね。それで心のバランスも取れてくるということになるのでしょうか。
小和田 そうですね。秀長の死後はバランスが崩れていったのでしょうね。


