●道徳の本質と既存モデルに関する仮説
では3番目ですが、「道徳に基本原理はあるのか」ということで、これも少し昔の授業を思い出してみてください。これまで何千年もの間、道徳思想には、個人に重点を置くものと社会に重点を置くものがあったわけですけれども、なぜこのように2つに分かれているのか。何千年もの歴史があり、しかも非常に賢い人たちが考えてきたわけですから、全部が間違いということはないでしょう。そこで、私は仮説として、道徳の真の姿と既存のモデルの限界ということで、次のように考えました。非常に単純化していますので、例え話として聞いてください。
道徳の本質は、例えばこの海苔の缶のような形をした立体である(と考えます)。ところが、上からだけ見ていると丸だと感じますし、横からだけ見ていると長方形だと感じます。これはどちらも部分的には正しいのですし、どちらも真実は含んでいるのですが、実体は立体の円柱です。つまり、(そうした2つの見方はそれぞれ)不完全な評価だったのではないか。そうした仮説を立てました。
●諸宗教に共通なミニマムな掟―人に危害を加えるな
では、これが本当かどうかということで、道徳の真の姿を推定するため具体的な掟である戒律を調査することにしました。残念ながら個人に重点を置くモデルでは道徳律がないので、調査することはできません。ですから、宗教などの戒律を調査するということにします。
例えば、仏教の五戒ですが、これについては皆さんの中で知っている方もいると思います。殺してはいけない(不殺生戒)、盗んではいけない(不偸盗戒)、不倫してはいけない(不邪淫戒)、嘘をついてはいけない(不妄言戒)、酒を飲んではいけない(不飲酒戒)というものですが、これらについて調べてみます。その他、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、ユダヤ教など、さまざまな戒律から、まず、共通項はないかということを抽出してみます。
そうして、主要な宗教の戒律の共通項を抽出しますと、「人を殺してはいけない」「人のものを盗んではいけない」「人をだましてはいけない」は必ず入っており、ざっくりまとめますと、要するに「人に危害を加えるな」ということだと思います。
参照例として挙げますと、漢の高祖は秦を滅ぼした後、秦の非常に複雑で過酷な法律を全て廃止し、「法三章」だけにしなさいと言いました。「人を殺したり、傷つけたり、盗んではいけない」という三章だけにしたのですが、これは(先述したものと)非常に似ていると思います。要するにミニマムの掟ですね。「だます」というのも、先の項目に入るといえば入るので、私は同じことではないかなと思いますが、いずれにしても「人に危害を加えるな」というのは多分ミニマムな掟なのです。
●戦争や死刑では「不殺生戒」は守られていない
ここまでは良いのですが、よくよく考えると、これは戦争や死刑では全然守られていません。「人を殺してはいけない」「盗んではいけない」「だましてはいけない」ということが、です。例えば、聖徳太子は物部氏の滅亡を仏像を彫りながら祈ったという話があるですが、聖徳太子は仏教に注釈書を付けるような人ですから、彼が不殺生戒を知らないはずはありません。これは疑問だと皆さん、思いませんか。しかし、そこで「聖徳太子、おかしいよ」という話を、私は聞いたことがありません。
それから僧兵ですが、彼らも不殺生戒を絶対に知らないわけはないのです。十字軍だって、もちろん字が読めない人もたくさんいたでしょうけれど、モーセの十戒を知らない人は、いないと思います。それから今、宗教原理者によるテロ、特にイスラムの方が多いということですが、もちろんイスラムだって「無実の人を殺してはいけない」とちゃんと書いてあります。彼らが知らないわけがありません。なのに、なぜ人を殺したりするのか。
●道徳は「仲間」同士の内輪の掟
結局こうやって戒律から共通項を抽出したのですが、これは全くの矛盾だらけで、訳が分からないということになってしまいます。本当に訳が分からないのでしょうか。
ここで気を付けていただきたいのは、「人」という文字です。われわれはどうしてもこれを字面で捉えて、「人というのは生物学的人間一般だよね」と思い込んでしまいます。ところが、実はそうではないのです。「人」とは、実は仲間の人間を指しています。仲間の人間だけを指しているのです。「人」を「仲間の人間」と書き換えると、あらゆる社会に共通の掟となります。例えば仲間の人を殺してはいけません。仲間の人のものを盗んではいけません。仲間の人をだましてはいけません。これは聖徳太子であろうが、僧兵であろうが、十字軍であろうが、今の宗教原理者のテロリストであろうが、全部当てはまります。それから、反社...