●犬は人間より道徳的に高潔?
実際、犬と人間とでは、犬の方が優れているのではないかと思える点は多々あります。とりわけ道徳的には、圧倒的にそうではないかと私は思います。
まず、犬は環境破壊をしません。それから、戦争をしません。犬同士でけんかするときはあるのですが、人間の言うような戦争ではない。それから、過去に固執しません。時には、昔いじめられた人を覚えて復讐しようというような犬がいないでもありませんが、普通はあまり過去に固執しません。それから現状を本当に潔く受容します。そして、静かに潔く死んでいきます。犬は間違いなく人間より道徳的に「高潔」なのではないかと、私には思えるのです。
哲学者たちも、実際にそう思ってきたきらいがあります。ソクラテスの弟子たちの中で、アンティステネスやシノペのディオゲネスなど、一般に「犬儒(キュニコス)派」と呼ばれる人々がそうです。
●「犬のような生活」を実践した哲学者たち
「キュニス」は犬を意味する言葉で、「シニシズム」の語源にもなります。犬と人間を比べて、「犬の方が優れている」と言ったため、彼らの言説はある種の皮肉ととられ、「シニシズム」が皮肉を指す言葉になっていきました。「人間は優れている」という前提を端的に退け、実践的な哲学的態度を重視した人々だったわけです。
ディオゲネスは、「樽に住むディオゲネス」とも呼ばれ、「犬のような生活」をしていたと伝えられます。ある時、アレクサンダー大王がディオゲネスのうわさを聞いて会いにいったところ、「ちょっとそこをどいてもらえませんか」と彼は言った。「日光を遮られるので」と理由を述べたという有名なエピソードがあります。一風変わった「犬のような生活」をした哲学者で、それが実践的にも徳にかなっていると示唆するための哲学上の立場を、生活面でも貫いた人です。
キュニコス派と呼ばれた彼らが、本当の意味では「犬」をどう見ていたかについては、さまざまな議論があります。深く突き詰めていくと、いろいろ問題がありますが、犬を一つのシンボルとして掲げた学派が哲学の歴史上にはあったということです。「犬のような生活」を道徳的理想と考えた一派とも言えるでしょう。
●高潔で無垢で純粋な「哲学者の顔」とは
私自身、「哲学者の顔」という小文を書いたことがあります。表題と私の名前で検索していただくと、ネット上で読むことができます。
私は「哲学者の顔」を、本当に高潔で無垢で純粋な、徳の高い顔と考えました。そのような顔は、普通ソクラテスと結びつけられることが多いものです。他の哲学者は通常、デカルトであれカントであれ、マルクスであれヴィトゲンシュタインであれ、他からの批判を受けます。むしろ批判されることが哲学者の勲章にもなっている。ただ一人だけ例外としてほぼ100パーセント批判されない人がいる。それがソクラテスです。彼は批判の対象にはならない。なぜなら、あらゆる哲学者がソクラテスの子どもと言える存在だからです。
誰からも尊敬されているソクラテスは、「哲学者の顔」の役としても、やはり圧倒的な支持を得て選ばれることになります。しかし、本当の意味での「哲学者の顔」は、「ソクラテスではなくて犬だ」と私は文中で述べました。
ここに、私にとっての「哲学者の顔」を映しましょう。私の飼い犬「しずか」の顔です。もう亡くなってしまった雑種の犬ですが、この横顔に、私は哲学者の風貌を感じるのです。どの犬にもこういう瞬間があると思います。犬の顔こそ哲学者の顔だと私は思うわけです。
●犬は個体ではなく「種体」として生きている?
犬は個体としては人間よりも寿命が短く、長生きをしてもせいぜい20歳ぐらいですから、確かに脆弱かもしれません。ある方の研究によると、日本で記録に残っている限り最長寿の犬には26歳という例があるそうです。今だと20歳まで生きる犬も絶無というほどではなく、17~18歳まで生きる例はざらにあります。しずかは、16歳と5カ月ほどで亡くなってしまいました。人間よりずっと短い寿命でした。しかし、彼らは種としては大変たくましく、いわば人間を活用して、強力に存続を成功させてきたわけです。
人間が、「犬よりも自分たちの方が優れている」「自分たちが犬をコントロールしている」と思ってしまうのは、人間の思考が物事の「主体」をどうしても「個体」レベルで捉えてしまう傾向があるからではないか、と私は疑っています。ここで私は、個体レベルではなく、種としての「種体」という主体概念を提案したいと思います。
犬は、人間とは違っている。個体としては劣っているように見えるけれども、「種体として」行動しているのではないか。その「種体」は人間よりはるかにたくましく、その高等な能力の下で、自分たちの生存...