戦後の皇太子教育を担った小泉信三は、「戦後民主主義的な世の中が永続していく」というイメージのなかでイギリス王室に範をとった。だが、現在までの数十年間に起こったのは価値観の多様化であり、それに前後するブルジョア市民道徳の崩壊であった。「何が正しいか」さえ多様化した時代に、はたして「オープンにして敬愛される皇室像」は成立しうるのか。(全7話中第3話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
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●小泉信三は、やっぱり「近視眼的」だった
―― 前回の片山先生の問題提起のなかで、「皇族の少なさ」に関してはまさにこれから、旧宮家の復帰等々を含めて、いろいろな方策が考えられていかなければいけないだろうと思います。
もう一つ、今のお話をうかがいながら理念的に非常に難しいかと思ったのが、「国民との『信頼』や『敬愛』に基づいて」というところです。何というのでしょうか、社会において、「おおむねこれが望ましい」「道徳としては、これが正しい」「あるべき結婚は、こういうもの」ということが広く共有されている時代であれば、その姿を、「これが自由だ」「自由恋愛のすばらしさだ」と貫かれればいいのだと思うのですが、さらに最近ではいろいろ価値観が多様化してまいりました。
それこそ象徴的にいえば、LGBTの話などでは「もっと認めるべきだ」と強力にいう方もいらっしゃいますし、「いや、どうなの?」という方もありと、かなり分かれてしまいます。これは一概にどちらが正しいというのも難しいところがある時代ですね。
「どちらが正義か」「どちらが普通か」とは、もういえない時代になってきているなかで、「では、皇室がどういうことをやると敬愛されるのですか」「どういうことをやると尊敬されるか」ということは、皇室の側に立ったとしても相当難しい時代になりつつあるのではないかと思うのですが、ここはどう思われますか。
片山 まさにその通りだと思います。ちょっと古めかしい言い方になりますが、中産階級的、ブルジョア市民道徳のようなものが(薄れてきました)。
私は戦後の高度成長期の中産階級の家の出身ですが、父親や母親が「これはやっちゃ駄目よ」「いくら自由恋愛だからといったって、こういうことは一応……」のようなことをいいました。それはいわゆる明治的・儒教的な道徳とは全然違うのだけれども。もっと近代的な、かといって極端な個人主義ではない。
家族があって、結婚するにしても相手の家、きょうだいや親御さんがいるところに挨拶へ行って、「仲良くやりましょう」という。そのようなレベルでの道徳というものは、戦後何十年かは、「これからずっと続いていく道徳」として考えられていました。近代の世界、とくに欧米の色々な映画とか小説とかドラマとかお芝居に描かれてきたような家庭というものが、新しい規範になりました。
たとえば、戦...