●小泉信三は、やっぱり「近視眼的」だった
―― 前回の片山先生の問題提起のなかで、「皇族の少なさ」に関してはまさにこれから、旧宮家の復帰等々を含めて、いろいろな方策が考えられていかなければいけないだろうと思います。
もう一つ、今のお話をうかがいながら理念的に非常に難しいかと思ったのが、「国民との『信頼』や『敬愛』に基づいて」というところです。何というのでしょうか、社会において、「おおむねこれが望ましい」「道徳としては、これが正しい」「あるべき結婚は、こういうもの」ということが広く共有されている時代であれば、その姿を、「これが自由だ」「自由恋愛のすばらしさだ」と貫かれればいいのだと思うのですが、さらに最近ではいろいろ価値観が多様化してまいりました。
それこそ象徴的にいえば、LGBTの話などでは「もっと認めるべきだ」と強力にいう方もいらっしゃいますし、「いや、どうなの?」という方もありと、かなり分かれてしまいます。これは一概にどちらが正しいというのも難しいところがある時代ですね。
「どちらが正義か」「どちらが普通か」とは、もういえない時代になってきているなかで、「では、皇室がどういうことをやると敬愛されるのですか」「どういうことをやると尊敬されるか」ということは、皇室の側に立ったとしても相当難しい時代になりつつあるのではないかと思うのですが、ここはどう思われますか。
片山 まさにその通りだと思います。ちょっと古めかしい言い方になりますが、中産階級的、ブルジョア市民道徳のようなものが(薄れてきました)。
私は戦後の高度成長期の中産階級の家の出身ですが、父親や母親が「これはやっちゃ駄目よ」「いくら自由恋愛だからといったって、こういうことは一応……」のようなことをいいました。それはいわゆる明治的・儒教的な道徳とは全然違うのだけれども。もっと近代的な、かといって極端な個人主義ではない。
家族があって、結婚するにしても相手の家、きょうだいや親御さんがいるところに挨拶へ行って、「仲良くやりましょう」という。そのようなレベルでの道徳というものは、戦後何十年かは、「これからずっと続いていく道徳」として考えられていました。近代の世界、とくに欧米の色々な映画とか小説とかドラマとかお芝居に描かれてきたような家庭というものが、新しい規範になりました。
たとえば、戦後の(皇太子教育を担った)小泉信三さんなどは、イギリスの王室に範を取りました。
王室はブルジョア市民の感覚でいうとお金持ちだが、かといって威張りすぎて「平民とは関係ない」みたいにいうわけでもない。たくさん財産を持っているから、「みなさんのために使ってね」「ありがとうございます」という関係が成り立っている。別に(皇室のように)「昔から神様」というわけではなくて、「歴史の成り行きで王族になっているんですけど」というくらいのノリで、「とにかく仲良くやりましょうね」ということで愛される。
ああいうかたちというのが、20世紀、21世紀と、今後、「近代世界」というものがもっと長く続いていくのではないかと思われたわけです。
たとえば高度成長期には、定年までずっとみんなが会社に雇用されて、生涯賃金はこのぐらいになる。こんな家に住んで、子供は何人いて、いつ頃に結婚して、というふうに、だいたい人生が見えている。それが何世代も続いていく。「そういう戦後民主主義的な世の中が永続していくのだ」というようなイメージのなかで、私は失礼なことを申し上げれば「小泉信三さんは、やっぱり近視眼的だった」と思いますよ、本当に 。
つまり、ああいうイギリス王室的なモデルで、「戦後の民主主義社会というのは、それなりに平和で豊かな社会が続いていく。王室のあり方を皇室も真似れば、たぶんうまくいくのだ」と(考えた)。だから、よくも悪くもマイホーム的なものがあって、「子育ては、ママがこういうことをいいますよ」とか、「ナルちゃん憲法」(※令和の天皇陛下〈徳仁様〉が生後7カ月の頃、米国を訪問されることになった母君の美智子様〈当時・皇太子妃〉が、世話をしてくれる人に託した育児メモの通称)のようなものが範とされました。
当時の普通の団地などに住んでいて、まだ給料も安いかもしれないようなご家庭の父親や母親でも、たとえば美智子様の「ナルちゃん憲法」的なものであれば、共有できる子育て術です。つまり、ああいうレベルでブルジョア市民道徳が続いていって、時代のなかで保たれていく。その路線から逸れなければオープンな皇室が続いていくのだと思ったら、今、お話しいただいたように、一世代変わったら、「LGBTや同性婚を認めろ」というところまで来てしまったわけです。
もう一方では、一元的な市民道徳を超えて、プロレタリアートの道徳が世界...