●「人間として尊敬できない」天皇や皇族が出たときにどうするか
―― 特に、一つの思考実験的に考えると、今のアメリカなどが象徴的にそうですが、トランプ派と民主党の戦いのように完全に価値観が分断してしまっていて、国論を二分するような価値観の違いが生まれています。
それはアメリカだけかというと決してそうでもなく、ヨーロッパも、「超保守派」のようなことをいわれることもありますが、やはりいろいろな価値観が相当先鋭的に衝突する社会が、とくに先進国のなかでは目立ってきています。
そうなると、陛下が寄り添おうと思っても、どちらに寄り添っても、一方からは「何でそっちなんだ?」という批判を浴びてしまう。社会が割れてしまえば割れてしまうほど、難しくなってしまうところがあるのだろうと思います。
それでいえば、参考として考えるべきことが幾つかあると思うのですが、そのうちの一つが「三島由紀夫vs全共闘」です。あれは、たしか昭和40年代だったでしょうか。
片山 そうでしたね。
―― あれは、あの時代の非常に象徴的な議論だったのだろうと思います。そこでは、当時学生であっただろう全共闘の方々は、ここでは憚られるような罵詈雑言を天皇に対して相当に浴びせ続けています。
片や三島は三島で、まさに今の問題に通じるような問題提起をしています。「誰々天皇がご病気だった、誰々天皇が偉かったというなかで、今の天皇陛下が偉いから私は尊敬するという価値観は、小泉信三のようなオールド・リベラリストの議論であり、私はこれに与しない」。天皇というのは連綿と続く美しさなのだという議論を展開しているわけです。
あのときの、対極に分かれた何か不思議な空間というものが、今になって改めて問題性を提起してくるような気もします。三島がいっていた「あれはオールド・リベラリストのあり方であって、自分の天皇像とは違うのだ」という問題提起については、片山先生はどのようにお考えになっていますか。
片山 三島由紀夫の指摘や問題設定のしかたというものが――彼も没後50年を超えたわけですが――、改めてじわじわと深く、「そこにポイントがあったな」と効いてきている感じはします。
やはり、「人間として尊敬できる」天皇というものを追求していくと、「人間として尊敬できない」天皇や皇族が出たときにどうするのかという問題になる。
代々の...