●皇室は、議会政治から超然として「万年の春」であるべきだ
―― 前回の先生のお話を受けて、ここでさらに時代をさかのぼるとすると、一つ議論に挙げたいのが、福澤諭吉の「帝室論」です。明治期の帝国憲法ができて国会が開設されるときに、帝室(現・皇室)のあり方を書いたものですが、ちょうど今まで議論をしてきたようなことが非常に簡潔にまとめられている気がします。
福澤諭吉がいっているのは、「これから議会というものができますが、そうなると、そこでいろいろ対立が起き、争論をするのです。しかも議会などというものが作るのは法律くらいであって、倫理的なものを訴えたり、道徳を示したり、あるいは叙勲(勲章を授けること)したりするような価値もないところです」ということです。
「だから、帝室(皇室)というものはそこから超然としていなければならない。議論、いわゆる社会的な騒乱や二つに分かれた対立からは違うところにあって、逆に国民の統合を支えるような存在でなければいけない。軍隊だって議会のためには死ねないはずで、陛下の命令だから動くのがむしろ普通の姿であるはずだ」ということが書いてあります。
「議会がどんなに争っていても、皇室はあたかも春の風のように駘蕩(たいとう)としているような姿でなければ、国というものはまとまらない」という問題提起をしているかと思われます。
この時期にこういうものが出てきたことの意味を、片山先生はどのようにお考えですか。
片山 福澤は最初から、天皇というものを民主主義的で議会中心の政治体制とは切り離して考えようといっています。
美濃部達吉の「天皇機関説」にも通じていきますが、要するに議会というものが国家の意志を決める。それは国民の代表が決めるのである。だから、議会を開設し、衆議院をつくるべきだ。日本が二院制になるにしてもやはり衆議院が重いという考え方です。福澤は英米の議会主義を学んで、そういう考え方を持っていました。
ということは、議会において国家の意志が決まるが、それが一枚岩で決まることはありえない。要するに、与党と野党がいて、それらは選挙のたびに入れ替わろうとして、必要以上にお互いを憎しみあい、罵り合う。そして、自分たちの政治的な意見(政見)を通そうとして、お金や脅迫など、非常にとんでもないこともたくさんやるのが政治というものである。議会制...