●蘇我氏との縁をもとに仏教受容で国家を振興した立役者
―― では、「日本仏教の名僧・名著」、お一方目は聖徳太子ということでございます。聖徳太子はもちろん皆さんご存じの方だと思いますが、どのような方と考えればよろしいですか。
賴住 そうですね、聖徳太子は父方も母方も蘇我氏につながるので、蘇我氏と大変に関係の深い方です。皆さんご存じのように、蘇我氏は日本に仏教を積極的に取り入れた古代の豪族です。ですから、聖徳太子も子どもの頃から仏教に親しんでいただろうと言われております。
―― 歴史の教科書で習うのは、蘇我氏が仏教の導入派で、物部氏や中臣氏が、どちらかというと排斥派だったというようなことですが、まさにその蘇我氏に近い皇族でいらっしゃったというイメージですね。
賴住 はい、そうなのです。お父さんは用明天皇という天皇でいらっしゃいましたが、太子自身は日本で初めての女帝といわれる推古天皇という方の摂政に就かれました。
その地位で、皆さんがご存じの「十七条憲法」や「冠位十二階」の制定、また遣隋使の派遣など、さまざまな国家的な事業を推進されていったわけです。仏教を積極的に取り入れて国づくりに生かしていったことでも、大変よく知られている方です。
―― はい。本当に歴史の本などでも聖徳太子のことはよく出てきますが、最近では、「聖徳太子はいなかった」とか、いろいろな説が新たに出てきました。
賴住 そうですね。はい。
―― しかし歴史上、こういう方がいらっしゃったのは間違いないと思いますので、その前提で伺っていきます。
●プライベートな信仰だった仏教を国づくりに活用
―― 前回のシリーズ講義(「総論」)にもあったように、日本仏教史においてはまさにこの時期が、仏教を受容する時期ということになると思いますが、聖徳太子にはどういう意味があるのでしょうか。
賴住 仏教が最初に入ってきたときには、かなりプライベートな信仰という要素が大きかったと言われています。
―― プライベートとは、どういう意味ですか。
賴住 例えば自分の先祖が死後に幸福を得られるように、あるいは病気が治るようにと、そういう個人や家の願望を仏教に託すという意味で、プライベートな信仰だったといえると思います。しかし、聖徳太子の場合には積極的に国づくりに生かしていきました。そうやって仏教を生かしていったという点で、大変に大きな仕事をされた方と考えることができるかと思います。
「十七条憲法」などを見ると、この仏教的な色合いがかなり強くあります。憲法というと今の私たちは日本国憲法などを考えますけれども、その当時は国家の役人たちが、どのような心構えでいるといいのかということを、憲法という形で示したといわれています。
当時の、いわゆるエリートの役人たちに、正しい生き方とはこういう生き方だということを教えるのに、仏教を役立てた。仏教の教えを生き方としてうまく取り入れたわけです。しかも、その対象は国家の役人ですから、国づくりをしていくときにはこういう心構えでいるというようなところに、仏教を積極的に生かしていったと理解できるでしょう。
●仏教が「先進国の先進文明」として受容された意味
―― 冒頭にご紹介いただいた遣隋使、つまり随に使いを出したことについて、もう少しうかがいます。随はまさに仏教を国家の一つの柱とした国家でした。また、東アジアの世界情勢なり国際政治を見た場合、仏教というのは当時の先進国の先進文明ということになるわけです。それを取り入れようとした聖徳太子の思いは、どういうところにあったのでしょうか。
賴住 今、おっしゃっていただいたように、やはりその当時、仏教というのは先進的な文明でした。
仏教というと、私たちは「心の拠り所」といった内面的なものとして受け取りがちですが、当時はむしろ最先端の文明であり、仏教を受け入れるということは、例えば立派なお寺を建築するための技術を受け入れることでした。また、最新の思想を受け入れることでもありました。そのようなあらゆる先進的な文明と絡めて、日本は仏教を受け入れたと理解することができると思います。
そういう意味では、東アジアの国々の中で日本を遅れさせないためにも、仏教を受け入れて盛んにしていくことは重要な課題だったと考えることができるかと思います。
―― また、総論の講義で先生がご指摘になった「宗教の重層性」についてお伺いします。
論者によると思いますが、日本の場合、神道もあれば、仏教もある。その仏教もたくさんのものがあると。その原点が、ある意味で用明天皇なり、聖徳太子が最初に仏教を入れようと言ったとき、神道はどうだったのか。それまでの日本の神道ですが、当然、皇室ですから、立脚の源になるわけです。けれども、その...