●「和を以て貴つとしと為」の「和」はどこから来たのか
―― では、さっそく聖徳太子の文章を見ていきたいと思います。まずは言及いただいた十七条憲法の第一条です。
「一に曰く、和を以て貴つとしと為(す)。忤(さか)ふること無きを宗(むね)と為(す)。人皆党(たむら)有り、亦(また)達(さと)る者少なし。是を以ちて、或いは君父に順(したが)はず。乍(ある)いは隣里に違へり。然るに上和(やわ)らぎ下睦(むつ)びて、事を論(あげつ)らふことに諧(かな)ふときは、則ち事理(じり)自(おの)ずからに通ふ。何(いずれ)の事か成らざらん。」
有名な「和を以て貴つとしと為」が一番最初に出てきますが、この第一条はどういう意味のある文章でございましょうか。
頼住 はい。まずは「和」ということを強く打ち出している文章だと思います。この「和」が、どこを典拠としているのかについては、いろいろな説があります。
例えば儒教からだという説では、『論語』の中に出てくる「礼之用和為貴(礼の用は和を貴しと為す)」という言葉が引かれます。「和を以て貴つとしと為」というところが重なっているので、儒教がもとだといわれているのです。
もちろんそれは間違いということではないと思いますし、影響力はあったと思いますが、気をつけなければいけないのは、「礼の用は」と最初に付いているところです。
―― この「礼」というのは、よく儒教でいう、あのお礼の礼ですね。
頼住 そうですね。「礼」というのは秩序ということです。秩序を保っていくときには、「和」も重視しないと、秩序でがんじがらめにするだけでは何ごともうまくいきません、という意味になってくるわけです。
『論語』では「礼」が一番中心にあって、「礼」をどうやって貫いていくのかというときに「和」も大事にしましょう、という話です。この文脈では、「和」は副次的なものだと思うのです。
「十七条憲法」の中では、「礼」について言及している条文が別にございますので、それに対する副次的なものを最初に持ってくるのは、少し変な感じがします。
●理想の「和」は、忖度からは生まれない
頼住 もちろん儒教の影響は強いと思いますし、「礼の用は和を貴しと為す」の言葉も十分意識されていると思いますが、ここではやはり仏教の「和合僧(わごうそう)」ということも考える必要があるかと思います。
和合僧の「僧」は「僧伽(さんが)」で、仏教の教団を表します。お坊さん一人一人も僧と言いますが、お坊さんの集団である教団も「僧」と呼んでいます。僧伽を意味する僧の中では、お坊さん同士が和合して協調し合いながら一所懸命修行しましょう、というのが「和合僧」の考え方です。
例えばどういうところで「和」が言われるかというと、お坊さんたちはいろいろ議論するものですが、議論をしていて、もし一人でも反対する人がいれば、そのことについては決めないという決まりがあります。
―― なるほど。かなり厳しい、厳格な形ですね。
頼住 そうですね。私たちであれば、多数決でも取ってしまって、多数派の意見で進めればいいのではないかという考え方を持ちがちです。しかし、朝から晩まで一緒にいて、ずっと一緒に修行している中で、心の軋轢が起こるのはよくない。そういうことがあるためかと思いますが、十分話し合い、皆が納得するまでは結論を出さないというやり方をしています。
第一条の後半では、「事を論(あげつ)らふ」ということを言っております。「事を論らふ」というのは何かというと、議論するということです。
―― 議論ですか。
頼住 そうですね。議論することが大切であるということです。和合する「和」というと、今の私たちにはなんとなく「忖度して、相手に合わせて仲良くしておく」というようなイメージがもたれることが、一部にはあると思います。
―― 空気を読んだり、本当は反対なのだけれどもやめておこうかということで引っ込んでおくというようなことでは必ずしもない、という話になってくるわけですか。
頼住 そうなのです。聖徳太子が言っている「和」というのは、そういう「忖度する」とか「空気を読む」とか、そうして表面的な調和を保っていくというようなことではなく、十分議論したうえでみんなが納得して調和しましょうということを言っているわけなのです。
●党派性を超えていくための議論の重要性
頼住 聖徳太子が第一条で言っているように、人というのは「党(たむら)有り」で、要するにみんなそれぞれ、自分自身の党派性があるということです。利害関係があって、なかなか意見がまとまらないということは、聖徳太子もちゃんと分かっているのです。
そこで「上和らぎ下睦びて」とあります。これは基本的には官僚・役人に対して言って...