●なぜ、戦後に「皇室財産」が奪われてしまったのか?
片山 (「帝室論」は)棚上げされたけれども、戦後の天皇や皇室のありようを考えた場合には、先取りしているところがあります。それから、戦後民主主義のなかで天皇(皇室)が国民から敬愛されるシチュエーションをつくっていくというのであれば、「皇室財産がたくさんあって、文化や芸術にお金を出す皇室像」というのはありえた話だと思います。
ところが、おかしなことに、「戦後民主主義だというのに天皇(皇室)がたくさん財産を持っているのはけしからん」という話になってしまう。あくまでも民主主義の下の象徴天皇は、国家の仕掛けであって、皇室の予算なども国会でコントロールされるべきものだという意見が、戦後は通ってしまったわけです。
だから、皇室財産は戦前・戦中まではあったけれども、(戦後は)なくなってしまった。天皇が自らのパフォーマンスによって国民から尊敬されるというようなときには、多分自分のお金を使えたほうがよかったと思います。それが、戦後民主主義の初期の原理主義的な「皇室が、自分たちが貴族的な暮らしをするためにたくさん財産を持っているというのは、戦後民主主義の精神に反していてけしからん」「皇室財産など、とんでもない」などという議論のほうが勝ってしまった。今では「警備費にいくらかけるのだ」といってくる人間ばかりになってしまったのです。
皇室が財産を持っていれば、「自分たちの財産でやります」といって、「ああ、そうなのか」という価値観の形成もありえたはずなのですが。そこが、オールド・リベラリストの設計も、ある意味で失敗しているわけです。
皇室財産を持っていない戦後の皇族は、全部税金でやっていて、「儀式も税金でやるのですか」という話になってしまった。むしろ、全部国家の予算でやって当たり前の皇室のありようになっていて、天皇主権・天皇中心で、天皇が建前としては政治・権力・権威の全部の頂点にいることになっていて、「朕は即国家である」というような考え方で国家のお金はすべて天皇のお金といってもいいような価値観でもまかり通るような論法を通していたはずの明治国家体制においては、別に皇室財産があった。ところが、そうでないほうが望ましいというふうにも考えられる戦後においては、皇室財産はない。このねじれも非常に尾を引いている気がします。
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