●このまま腰が引けていたら、時間的にも大変になる
片山 何か、ポジティブに変えていくためには、やはり、戦後の皇室が「人間天皇」と「象徴天皇」の合致点に、うまい落としどころを求めて探してきたということの「限界」を踏まえていく(必要があります)。それは極端な言い方をすれば、平成の時代で、そこで切れてしまったわけではないけれども、一つの大きな節目を迎えたと思います。
平成のグランド・フィナーレは、(戦後皇室の姿を)「美しく」見せたと思いますが、その後は「その続き」ではうまくいかないことがあまりに多すぎる。ここで、やはり考え直すタイミングなのでしょう。
ただ、そこまで考え直すことを議論するところまでは、政府のいろいろな会議なども(行っていない)。そんなところへ踏み込んでは大変だということで、かなり引いていると思うのです。そこで引いていると、何となく自然に、物事はどんどん過ぎて行ってしまう。時間的にも大変なのではないか。そのことは、私のように、本来は「あるがまま、なるがままが日本的だ」と考えている人間にも分かることです。
「あるがまま、なるがまま」だと、滅びの美学的になっていくではないですか。何が滅びるかというような僭越なことはいっていないのですが、やはりちょっと心配です。そうすると、「運を天に任せる」ということでは無責任なのかとも、少し思います。
―― そうですね。今日の議論では、多様化した社会であること、そして皇族の方々の心の問題の話もございました。公衆の前に出てきていただくということで(戦後は)来たわけですが、これだけネット社会になりSNSも盛んに行われると、芸能人でさえ嫌になってしまう。そんな時代のなかで、そういう役割を、なお皇族の皆さまに担わさなければいけないのか、ということがあります。
また、先生のおっしゃるように、この時代の変わり目で、今までの戦後社会で通用したものが、まったく通用しない状況になっているように、講座を聞きつつ思われました。やはり福澤の「帝室論」ではないですが、戦後のあり方というものの延長線上で考えるのではなく、「本来はどうだったのか」「歴史的にはどうだったのか」という議論をより根本的に行ったほうがいいかもしれないですね。
片山 皇族・皇室をある程度文化的・人間的にふるまわせながら、その権威を保っていくための方策を探るの...