●自己教育の範囲を広くしておかなければ、人を教育することはできない
井口 最後に自己教育の話をよろしいですか。
―― ぜひお願いいたします。
井口 山本空外という人がいました。もうだいぶ前の人で、明治に生まれたお坊さんです。この方の書いた本にね、「自分で自分を教育する」とある。
そうすると、その範囲がありますね。人間はその範囲を超えて他者に教育することは難しいと。人間が他の人間にある教えを施そうとするときには、自分が自分を教育している範囲を超えてはできない。だから、自己教育の範囲を広くしておかなければ、人を教育することはできないと。この指摘には、私はとても心を打たれましたね。
そうすると、普通は傍観者になるんです。いろいろな悪いことに対して。例えば、子どもが不登校になってキレてしょうがない。それをなおさなければいかんと思うけれど、なおそうとすると自分の自己教育が要りますよ。
―― 教える側の教育ということですね。
井口 具体的なことではなくて、腹の問題です。どういうことになってもひるまんという、その心構えがない人間が、なんで人を教育できますか。そういうことを山本空外が言っているわけです。これに関しては、勉強させられましたね。
●修行は自分に勝つためで、それが教育になっている
井口 お坊さんが編笠を被って顔を隠し、お布施を頂くときに念仏を唱えていますが、こうするしか仕方がないやないかと。人間教育として、どうしようもない情というものの修行をそこでやっている。
―― それはどういう意味でしょうか。
井口 人間教育とは、そんなに簡単にできるものですか。
―― できないですね。
井口 できないでしょう。できないけど、できないからといって、じっとしているわけにもいかない。自分の家でじっとしているよりは、町に出て顔は絶対見せずにブツブツ念仏を唱える。俺に力を与え給えというように、何かせにゃいかん。そのように自分で自分に何かするしか、もうやりようがないやないですか。
―― なるほど。
井口 人に相談するわけではなく、自分と相談する。自分との闘いですよ。自分との闘いに勝てないのに、なんで世界を良くすることができますかということです。
―― 人を変える、あるいは世界を変えるためには、自分との闘いに負けるような人は当然ない。
井口 そう。
―― そうすると、キリスト教でも仏教でもどの宗教でも、修行しますね。禅もそうですね。全部、修行というものが必要になりますが、その修行は自分に勝つために行うことなのでしょうか。
井口 修行というものは自分に勝つためです。人のためではない。
―― そういうことですね。自分に勝つ形で自己教育を積み重ねてこそだと。
井口 自分がそこまでやってるとね、それが教育になっているんやないですか。
―― そういうことですね。
井口 他に何もせんでも。
●今の世の中は自己教育不全症候群
―― そうなると、普通の親はどうすれば良いのでしょうか。例えばお坊さんや聖職者、いわゆるキリスト教の神父さんであれば、信仰の中で修行されていると思いますが、信仰とは特に関係のない普通の親からすると、それでも、子どもをきちんと育てるためには、なんらかの修行をしなければいけないと。
井口 自分がそういった気持ちになる以外には、その方法はない。自分がその気持ちにならないのに、なんで人にいえますか。
―― そうですね。まず自分自身の修行をしようという気持ちになって、その次に何を自分に課すかと考えるわけですね。
井口 自分にそれができないで何ができるかという心境で、あれこれいろいろやるというのが本当の教育でしょうね。それを押しつけてはいかん。分かる人には分かるから。
―― 自分でその世界に達するべしということですね。
井口 それで相手の人は同じ心境になったときに初めて分かる。
―― なるほど。
井口 こちらが「こうしなさい」と、いうことではないのです。
―― そういうことですね。
井口 それは下品ですよ。
―― まさに修行と一緒ですね。
井口 そうそう。
―― 悟りと一緒ですね。
井口 そう。
―― いかに自得するか。自分で理解するか。
井口 そうです。例えば、よく学校の先生があれやこれやといろいろと言いながらも、(最後には)結局涙を流しているやないですか。あれは、自然に自己教育をしているわけですよ。あの涙を見て、心を動かさない子どもはいないと思う。
―― 大切なことを教えられて、ということですね。
井口 ただ書面審査の紙だけ渡されて、というのとはわけが違う。
―― そうですね。同じことを伝えても、それが心に染みわたる人と、先生が何か勝手なことを言っていると受け取る人との違いがあると。そこがまさに...