●生物学的教育論と人間科学
―― 皆様、こんにちは。本日は、九州大学名誉教授で日本外科学会名誉会長でいらっしゃる井口潔先生に「生物学的教育論」というテーマでお話いただきます。井口先生、どうぞよろしくお願いいたします。
井口 よろしくお願いします。
―― 井口先生がお書きになった『人間力を高める脳の育て方・鍛え方』(扶桑社)という本の中で、この「生物学的教育論」が展開されています。冒頭の部分で、有名な数学者の岡潔先生の、非常に印象深い言葉が引用されています。『春宵十話』という随筆の冒頭にある、「(実際は人が学問をし、人が教育をしたりされたりするのだから、)人を生理学的にみればどんなものか、これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか」という言葉が最初に引用されています。ここでいう、「人を生理学的にみる」、あるいは「生物学的にみて考えていく」というのは、どのように理解すれば良いのでしょうか。
井口 「人間科学」という言葉がありまして、大阪大学にはそれを専門とした講座があります。私の理解するところによると、その「人間科学」とは、生命の本質は遺伝子にあるという見方です。
生命科学は、極微の世界ということで遺伝子的なことを研究するわけですが、それに対して、マクロの世界で人間をみるというのが人間科学ということのようです。私は、そういう意味ではなくて、人間を普通は宗教や哲学で考えるところを、生物学的にみるものが人間科学だと思っていたのです。
ところが、これは少し語弊があるかもしれませんが、大阪大学の人間科学講座では、ある人が「人間科学」といっても学生を集めなければならないので、そうすると、学生はあまり高尚な概念を持ち出しても分からないので、「人間関係学」としようと考えました。あるいは、「人間科学を知っていると、会社に入って上司によく思われるにはどうするべきか分かる」とか、「人付き合いの科学」といった言い方にすると、学生がよく集まってくると聞きました。
それはそうかもしれませんが、学問としてはあまりにお粗末すぎるのではないかと思いました。やはり人間をみる上で、宗教や哲学などとは違った見方が必要だろう、と私は強く思っておりました。
●外科研究に打ち込むことになった経緯
―― なるほど。先生はずっと外科の研究をされていらっしゃるということですので、そうした考え方は、外科の研究をするなかで経験的に培ってこられたのですか。
井口 いや、外科とはまったく関係ないですよ。
―― それでは、どういった発想だったのでしょうか。
井口 私は、終戦の年に大学を卒業して、すぐに実地の勤務に就こうと考えていました。私の父が外科医だったので、当然外科医になろうと思いました。そこで、どこかの外科に入局する必要があったのですが、入局しても誰もいなかったのです。なぜかというと、外科のほとんどの人は軍医に出て、外地にいるわけですよ。にわかには帰ってこないのです。なので、戸を叩いてもそこにいるのは教授だけでした。
ですので、大学院に入って、理学部と外科のお二人の教授の指導を受けることができました。九大の理学部に行って、物理化学を勉強したのです。そうすると今度は、学生ではなく、理学部の物理化学のスタッフになりたいと思いました。ちょうどその時、私を指導する予定の先生が、東京女子高等師範学校がお茶の水女子大学に昇格するのに合わせて、物理化学の教授に内定していたのですが、「物理化学実験法をやるときに男が欲しいので、おまえ、ついてきてくれんか」といわれたので、ついていきました。そこで、医学博士の学位を持っていたので、専任講師にしてもらったのです。
このような経緯で、2つ目の学位の理学博士も持ちました。ちょうどその頃、恩師から「帰ってこい」といわれたのですが、その恩師が急病で亡くなったのです。その後の選考委員会で、私は42歳で教授になりました。「えっ?」と、びっくりしましたが、教授になることは悪いことではありませんから。
その4~5年後に、九大の工学部にアメリカのジェット戦闘機が落ちて、それから大学紛争が始まりました。教授室や研究室は全部封鎖されて、えらいことになりました。えらいことになったけど、私は戦争中ずっと学生で、講義が何もなくなるという意味では大学紛争のような時代でした。だから慣れているのです。
―― 戦争中の記憶もあって、ですね。
井口 だから、困ったことになったと思うと同時に、前に経験したことが役に立ったと思って、嬉々として仕事に精を出しました。そこで私が一番に考えたのは、封鎖されたので研究ができるようになったことです。工学部はあまり紛争の影響を受けなかったので、工学部の流体力学研究所に「共同研究やろうやないか」と提案しました。...
(井口潔著、扶桑社)