●配偶者をめぐる競争・選択・防衛と「性淘汰」
―― 最後にお聞きしたいのは、いわゆる生物学的な性差なのか、文化的なジェンダーなのかというところです。例えば必然的に生物学的に、男性と女性の中間値になる、あるいは女性と男性の中間値になるということが間違いなく存在するのは、今日のお話からも分かりました。
ただ、大部分の人が男として、または女として生まれてくる中で、今まで文化として培われてきたものには、おそらく男性は男性に心地よい、女性は女性に心地よい部分があったでしょう。あるいは、結婚して子どもをつくるという人生のサイクルを考えたときに、それが合理的だった部分もあるかと思うのです。
今はそれが社会的にいろいろな形で変わってきている。これは、もちろん人権の問題等々があって変わってきているわけですが、必ずしもその部分が生物学的に見てどうなのか、あるいは個々の人間として本当に心地よいのかどうかというところもあるかと思います。ここはどのように考えればよろしいですか。
長谷川 そうですね。人間の文化でジェンダーの話や社会的地位の話をするのは、いろいろ複雑で難しいと思います。昔は、私ももう少し簡単に考えていましたが、全然簡単ではないということがよく分かってきました。
まず、生物学的には、「配偶競争」というのが(スライドの)上のほうにあります。これは、配偶者を獲得するための競争です。配偶競争で、大抵の哺乳類は雄-雄(競争)で勝ち残らないと配偶相手を見つけられない。たくさん勝ち残れば、たくさん配偶者を増やすことができるという配偶競争というものがあるわけです。
それから、「配偶者選択」というものがあって、こちらは雌のほうが強いわけです。特に鳥などで、それがはっきり現れるのですが、配偶者を誰にするかを雌側から決める(雄から決めてもいいのですが)。(ということで)配偶競争とは別に、配偶者選択というものがあります。
それから、「配偶者防衛」というものもあります。つまり、先ほど少し言いましたが、アザラシの勝ち残った雄が、自分のことを本当に好きではない雌を自分のそばにとどめておくために、首の後ろを噛んで行かせないようにする。これを配偶者防衛というわけです。
そうすると、ここでみんな利害の不一致が生じるのです。配偶者選択で「私は...