●幼年期の教育はパターン認識で進めていけば良い
―― 今のお話に関連して非常に得心したのが、昔の江戸時代の教育に関するお話です。江戸時代には、小さい頃に意味も分からないけれども論語などの漢文の素読、覚えさせることをさせる。まさに10歳とか、ある程度大きくなってから、これがどういう意味なのかという解釈を教えていく教育だった。
例えば論語の言葉であれば、小さい頃に素読をすることで、体に染みついて処世訓となりますが、それをやらずに大脳新皮質ができあがる思春期ごろの年齢になってから素読をしても、処世術にはなっても処世訓にはならないというお話が、先生の本(『人間力を高める脳の育て方・鍛え方』)の中にありました。「なるほど、そういう違いがあるのか」と思って非常に納得しましたが、江戸時代の教育にはそういう良いリズムがあったということですか。
井口 江戸時代には、生物学的な知見というものはないけれども、長い経験から直感的に分かっていたのでしょう。例えば、最近では幼年期には簡単なことから教えようとする。しかし、幼年期ほど難しい漢字を覚える。6歳のときには、画数が多い漢字もすぐ覚える、直感で。パターン認識というものです。
―― 小さい子は、例えば電車の名前や車の名前など、関心を持ったことはとにかく無尽蔵に覚えていくところがありますね。
井口 車に関していえば、日産やトヨタなど、いろいろ種類があるやないですか。それも、トヨタや日産などと言葉で見ているのではなく、形で見ているわけです。
そのとき、「あれ、日産よ」といったら、それを覚えているんです。だから、字を読んで見ているのではなく、大人が「これは日産」などといったものを、形としてすぐ覚えてしまうのです。それをやっているだけの話で、それがパターン認識。
パターン認識というものは、言葉でやっているわけではなく、全部勘でやっている。だから、寺子屋に行って、「論語を大きな声で読みなさい」と指示すると、すぐ覚えるわけです。それは、ずっと忘れないですよ。そのようにして幼年期の教育は進めていけば良い。
そうすると、論語を算盤にしても良いですね。算盤にしても、全部勘で分かるわけです。それが幼年期です。だから幼年期は、よく分からなくても、青年期まで十分に記憶が残るわけです。そして、青年期になると、子どものときに論語の暗唱をしていたものが、「あっ」と口から出てくる。その時期までにいろいろな経験を積んでいるから、「ああ、この言葉はこういうことだったのか」と分かる。このように、幼年期の教育は青年期に完結する。だから、小学校教育のときには、いちいち試験をする必要はないと。
●中学、高校では論理を身につける教育に切り替える
井口 今度は中学、そして高校に入学しますね。幼年期に遊びながらやっていたパターン認識は、特に何か努力などせずに自分で勉強していたようなものですが、あれをまたやりたいという人間が出てくるんですよ。つまり、幼年期の勉強の仕方を青年期になっても継続しようとすると。しかし、青年期になると新しい脳を使ってやらなければいけない。そのときに古い脳を使って学ぼうとする。古い脳は生理的に機能が感性そのものになっていくので、この時期にそれを使うのは「ダメ」としっかり伝える必要がある。「あんたは高校に入ったから、昔のものは使っちゃいけない」と。「あんたの本当の理解力や論理力がダメになるよ」と。「昔とは違う、新しい勉強の仕方に切り替えなさい」と。それが中学のやり方です。
中学は、小学校から高校に行く前の中間期です。ただ、個人差があるわけです。だから、中学卒業の段階でどのようになるのが良いのか分からない。それでも、皆だんだん落ち着いてきて、「分かった、論理の勉強をやろう」と決心が固まれば良い。このようにすると、年齢に応じた教育がだんだん分かってくるでしょう。
―― そういうことなんですね。
井口 はい。
●ゆとり教育の間違いは、幼年期に考えさせる教育を進めたこと
―― だから、例えば小さい頃に「あなた、よく考えてみなさい」といわれました。最近、子どもに考えさせるということが教育のなかでいわれることがありますが、幼年期に自分で考えさせるのは、脳の発達段階の観点からいえば、少し違うということになるわけですね。
井口 「よく考えなさい」というのは、要らんことですよ。子どもに「よく考えなさい」といっても、パターン認識ですから分からないんです。
―― なるほど。
井口 子どもはね、大人が何を考えているのか勘で分かるわけですよ。だから、分かったようなふりをするのです。
―― 分かったふりをすると。
井口 そう、ふりをする。だから、ゆとり教育の間違いはそこにあるのですよ。「よく考えなさい」、「勉強は...