●「戦後レジームからの脱却」のナゾ
今年は自民党結党から60年に当たるということで、55年体制が出来上がり、崩壊し、復活し、一強多弱と言われるようになっていますが、これは一体何なのか。さまざまな人が、マスコミや新聞・テレビなどで自民党60年の総括をしています。私も新聞などでインタビューを受けたことがあります。総じて、軽武装、経済中心、日米同盟などということが、ひとくくりにして表現できることでしょう。また、保守をベースに、特に地元に手厚く後援会をつくって支持基盤を広げる手法も、戦後発達したものと言えるでしょう。
安倍晋三首相をはじめ、よく「戦後レジーム」という言い方がなされます。しかし、戦後レジームとは何なのか。これを明確に定義しなければなりません。戦後レジームといっても、今年は戦後70年で、自民党結党60年ですから、ほとんどの期間を自民党が支配しているわけです。「戦後レジームからの脱却」が、「この自民党支配を脱却する」という意味であれば普通です。ところが、戦後レジーム批判の人は、おそらく第二次世界大戦が終結した1945年から、サンフランシスコ講和条約締結の1952年までの占領期を批判しています。この間にあった戦後レジームというと、ヤルタ会談もあり、ポツダム宣言もあり、極東裁判があり、憲法制定があり、占領軍統治があり、指導者追放があり、重化学工業が禁止されたり、検閲があったりといったような、これをひっくるめて批判をしたいのだろうと思います。
しかし、よく考えてみると、戦後70年のうちの60年間を、何らかの形で自民党が支配しているのです。細川政権時代と民主党政権時代、2度の政権を担当しない時期を除くと、ほとんどが自民党支配でした。これを反省して戦後レジームからの脱却と言うなら分かりますが、占領期の7年間、あるいは6年間をいまだに引きずって「結党の精神に戻れ」と言うと、それはつまり、1955年に戻ってしまうわけです。1955年に戻るとはどういうことか。60年前に歴史を戻せということなのかと、疑問が湧きます。
●政治体制の話は経済システムの話でもある
ただ、今日はそういう角度からではなく、また別の問題提起をしたいと思います。それは、敗戦から講和条約締結までの間が気に入らないとしたら、日本がもし戦争に勝ち、そのまま戦前の体制が戦後に続いていったら、一体日本はどうなっていたのだろうかという問いかけです。「これで経済成長ができましたか?」と、海外の経済史の専門家に聞いたことがあります。ほとんどの人の答えが「ノー」「あり得ない」でした。あの軍国主義のシステムで、現在のように、あの1960年代、70年代、80年代のように経済が発達することはあり得ないと、多くの人が言っています。
ということはつまり、基本的には政治体制と経済システムの関係です。社会主義や共産主義で経済システムが円滑に動くのかというテーマでもあるわけです。多くの場合、政治体制が民主的であることが前提で市場経済が動くというのが普通の理解です。ですから、日本の戦後レジームとは何かというと、「民主主義のシステムの下で咲いた花」なのです。戦前の体制がそのまま延長してきた軍国主義体制の統制経済下で咲いたのが、日本の戦後の経済成長ではありません。
ここを議論する人はほとんどいません。一部、1940年体制といって、1940年頃に出来上がった規制やシステムを、今も依然引きずっているという野口悠紀雄さんの指摘がありますが、それはごく一部です。しかし、政治システムは民主主義ではなく軍国主義、経済システムは統制経済あるいは計画経済という形で戦後も続いていたと仮定すると、今の制度や繁栄はおそらくなかったでしょう。「昔はよかった」という人の議論に欠けているのはこの部分だろうと思います。
●戦後復興の旺盛な需要が好循環を生んだ
そこで、戦争に負けた事実を認めて戦後をもう一度振り返ってみると、悔しさや我慢のエネルギーを何に向けて集中したのかというと、経済復興に集中したわけです。そこに加えて、副次的に指導者が入れ替われました。公職追放が行われる。極端な話、課長さんが社長になった会社はたくさんありました。また、町が瓦礫になる。爆撃された所では、更地から新たな投資をして工場をつくり、人を雇う。言ってみれば、日本に珍しいガラガラポンが起きたときなのです。ですから、投資をすれば即その効果がありました。最先端の機械や技術を輸入してきて、それを投資に回すことができた。あるいは、貯蓄率が高いお金が銀行に行き、銀行が貸し出し、それがさらに投資を呼ぶ。「投資が投資を呼ぶ」ということがあったわけです。
この頃は需要が旺盛です。一般的なイメージでは、戦後はケインズ政策で動いたと思うかもし...