●国民の分裂をもたらしたトルコ国防軍クーデターの失敗
皆さん、こんにちは。7月15日から16日にかけての一夜は、トルコの歴史にとって最も長い夜になったといわれています。この15日から16日にかけて生じたトルコ国防軍の一部による武装決起、武装蜂起は、一般市民と警察官に多数の犠牲者を出すことによって、最終的には鎮圧されました。しかしながら、これは国防軍の長い伝統において、回復不能ともいえるような汚点を残しただけではありません。トルコの対外的な信用と国民の統合に亀裂を入れたというだけでもありません。最も重要なのは、トルコの国民が二つに分裂したということです。「トルコの国内戦争が始まった」と言う人さえいます。
つまり、あの街に出てクーデター反対を叫んだ市民、あるいは民主主義の担い手として内外で賛美されたあの市民とはどういう人たちだったかというと、これはまごうかたなく公正発展党(AKP)という与党政権とレジェップ・タイップ・エルドアン大統領の支持者たちでした。
ところが、トルコにはそれと同じくらいの人数、すなわち国民の半分くらいは公正発展党とエルドアン政権の強権的手法や、あるいはこの間の独裁政治や腐敗した利権絡みの内政に対して批判的な人たちもいたことも考えなければなりません。
●「中東で最も安全な国」から「不安定国家」への陥落
もっとも、こうした点については、外国人にとっても憂慮すべきことが多々あります。まずトルコは、日本人にとって非常に人気のある国であるということです。そして、イスタンブールを中心とし、カッパドキア、ギョレメ、あるいは地中海沿岸の古代のギリシャの遺跡、例えばトロイ、ベルガマ(ペルガモン)、また、現代のトルコ3番目の都市であるイズミル(古代ギリシャのスミルナ)など、こうした町々は観光名所としてトルコに大きな外貨収入を稼がせてきた場所です。この「テンミニッツTV」の主催者である神藏孝之氏と私もまた、数年ほど前にトルコを旅行し、アンカラそしてイスタンブールと回ったことを懐かしく思い出します。 考えてみますと、こうした二人の旅行は、トルコの一番平和で一番繁栄し、そして人々が一番輝いていた、そうした時代に行ったということで、そこは日本人にとってまさに観光のスポットとして行く価値のある場所であったと、つくづく思わざるを得ません。
それにしても、中東で一番安全だったトルコは、今やイスタンブールのアタチュルク空港をはじめとし、首都アンカラでも頻発するテロと相まって、中東で最もとまではいわないにしても、すこぶる不安定な国家に成り下がったという事実は否定できません。
●過去3回のクーデターとは一線を画す軍事テロ
もちろん今回の武装蜂起は愚かなものであり、市民に多数の犠牲者を出したという未曾有のスキャンダルでした。しかし、この鎮圧をもってトルコの民主主義は守られた、というように評価する場合、エルドアン大統領の権力とはいかなるものであったのか。エルドアン大統領の政権運営の性格とはどのようなものなのか、こういうことを合わせて見る必要があります。折から、反対者に対する徹底した弾圧と、死刑の宣告までを予知するかのような厳しい報復が今、始まっています。
エルドアン大統領と公正発展党(AKP)政権の転覆を図った今回の事件は、どのように定義するべきなのか、という重要な問題があります。トルコでは20世紀に3回ほど、軍はクーデターを行っています。1960年、71年、80年の3回で、軍の武装蜂起、決起は成功しましたが、それらは戦略的な政治目標の設定やリーダーが外に向けておのずから公開されていたということからして、政変、つまりフランス語でいう「クーデター」と呼び得るものです。
しかし今回は、善かれあしかれ選挙によって選ばれた公正発展党とその事実上の最高指導者であるエルドアン大統領に対する武装反乱であったということになります。しかも、市民に銃口を向けて、一体何の国防軍なのか、一体何の軍なのか、こうした根本的な点で説明ができない蜂起でした。
こうした非常に不明確な目標の完遂に対して、市民を犠牲にするというすこぶるスキャンダラスな事件でした。そういう武装反乱であったという意味においては、軍事テロ、すなわち、形を変えたテロ行為であったということも、あながち間違いではないと思います。
●イスラム穏健派ギュレン氏とギュレン運動が今回の事件と関連がある?
皆さんの中には、1923年にドイツで起こった事件を思い出した方もいるかもしれません。これは、ワイマール共和国を転覆するために、ヒトラーやタンネンベルク会戦で第一次世界大戦中にロシアの大軍を破った元軍人・ルーデンドルフが、それぞれ革新政治、あるいは帝国陸軍といった伝統を結合しようとしながら争乱を起こし...