編集長が語る!講義の見どころ
葛飾北斎と応為…画狂の親娘はいかに傑作へと進化したか/堀口茉純先生【テンミニッツ・アカデミー】

2025/12/12

いつもありがとうございます。テンミニッツ・アカデミー編集長の川上達史です。

葛飾北斎という名も、そして北斎が描いた名画の数々も、もちろんほとんどの方がご存じのことでしょう。

北斎は、勝川春朗、宗理、葛飾北斎、戴斗、為一などいくつもの画号を用いていますが、晩年の最後の画号といわれるのが「画狂老人卍」です。40代の頃に「画狂人北斎」という画号を使っていたこともありますが、まさに「画狂人」という名前のとおり、日本画や西洋画の様々な技法や画材を積極的に学び、取り入れ、ひたすら絵に打ち込んでいきます。

北斎は90歳で亡くなりますが、死の間際に「天があと10年、あと5年命を保たせてくれれば、真正の絵師になれるのに」と語ったともいわれます。その言葉どおり、絵の道をとことん突きつめ、絵の力をどこまでも高めていった生涯でした。

そのような葛飾北斎ですから、彼の生涯をたどりながら、それぞれの時期にどのような代表作を描いたのかを見ていくのは、とても興味深いものです。

さらに、北斎の画狂人生を考えるうえで、1つの強力な補助線になるのが、娘(三女)の葛飾応為です。本名は「栄(お栄)」で、彼女は絵師となり、北斎を画業で支えるとともに、自分自身でも素晴らしい肉筆画の名作を残しています。

晩年の北斎は応為とともに生活していますが、北斎も応為も、掃除や針仕事などの家事はほとんどせず、親娘の住まいの散らかりぶりは、それはそれは凄いものだったとも。北斎は生涯で93回も引っ越しをしていますが、その理由も部屋があまりに乱雑になると転居したからだといわれるほどです。

この「画狂親娘」の人生と作品を堀口茉純先生に、ご解説いただきました。数多くの絵を見ながら話を進めていく、まさに動画の良さを活かした講義です。

この講義でとても興味深いのは、葛飾北斎が描いた最初期の絵(第1話)と、葛飾応為の絵(第4話)を比べて見たときの印象です。もちろん浮世絵と肉筆画ですから単純な比較ができませんが、しかし、その表現の圧倒的な違いを見ると、北斎がいかに絵の境地を進め、さらに娘の応為がそれをいかに受け継いでさらに高めていったかが一目瞭然なのです。

さて、どのような絵なのでしょうか?

◆堀口茉純:葛飾北斎と応為~その生涯と作品(全4話)
(1)北斎の画狂人生と名作への進化
葛飾北斎と応為…画狂の親娘はいかに傑作へと進化したか
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=6047&referer=push_mm_rcm1

この講義は、まさに「百聞は一見に如かず」。次々に紹介されるたくさんの絵を見ていくことで、多くの学びを得ることができます。

さらに、紹介される北斎と応為のエピソードも画狂親娘ならではの興味深いものばかり。たとえば北斎が絵師の稼ぎだけでは食べていけなかった若い頃に大きな唐辛子の張り子を担いで七味唐辛子売りをやっていた話。さらに「北斎」という名の由来となった衝撃的な出来事。

遠近法をとり入れて、どのような絵を描いたのか。作家の曲亭馬琴とタッグを組んだ『椿説弓張月』の挿絵の圧倒的な迫力。北斎漫画の魅力。そして風景画の傑作『富嶽三十六景』への道。ベルリンからもたらされた藍色ということで「ベロ藍」と呼ばれた染料を用いることが絵にどのような力を与えたか。様々な絵から見て取れる北斎の「波」へのこだわり。

そして、陰影に富んだ葛飾応為の肉筆画の魅力。また、女性が女性を描くことで、どのような独特の表現が生まれたのか……。

北斎の門人の露木為一が描いた『北斎仮宅之図』に描かれた晩年の北斎と応為の姿も、この親娘の特異な生活を生き生きと伝えてくれます。

絵をどんどんと進歩させていった芸術家肌の親娘が、庶民からも高く評価されつつおおらかに生きていけた江戸の社会。そのあり方がいかに素晴らしいものであったかも伝わってきます。

とにかく、わくわくするほど楽しい講義です。ぜひご覧ください。


(※アドレス再掲)
◆堀口茉純:葛飾北斎と応為~その生涯と作品(1)
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=6047&referer=push_mm_rcm2