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戦後復興から圧倒的国力を獲得するまでのドイツの軌跡

現代ドイツの知恵と経験に学ぶ(2)再び強いドイツへ

島田晴雄
公立大学法人首都大学東京 理事長
情報・テキスト
公立大学法人首都大学東京理事長・島田晴雄氏が、2017年7月のドイツ訪問で得た情報、知見を踏まえ、ドイツと日本の戦後復興、そして現状を徹底比較。両国は多くの共通体験を持ちながら固有の経験もしている。日本にとって、その違いを知ることは非常に重要だと島田氏は語る。今回は分割統治から東西統一、そして欧州で圧倒的国力を獲得したドイツの軌跡をたどる。(全7話中第2話)
時間:08:34
収録日:2017/09/12
追加日:2017/10/26
タグ:
≪全文≫

●ドイツはある意味で日本の鏡のような面がある


 ドイツは、今EUを支える中核の国です。特にEUがBrexit(ブレグジット)で揺れているので、役割はますます重要になります。それからまた、アメリカではドナルド・トランプ大統領という個性的な大統領が現れました。トランプ氏は世界システムに対する理解が不足しており、経済、安全保障、環境問題などにおいて国際協力の意味と役割を分かっているとは思えません。そういう意味でも、ドイツの国際的役割はこれからますます大きくならざるを得ないでしょう。

 一方、日本はもちろんアジアの中核国です。人口や経済規模でこそ中国の後塵を拝していますが、技術やさまざまな社会制度などで日本の先進的な役割は極めて重要です。しかし、日本の安全と経済活動は、日米の同盟関係に大きく依存しています。アジア諸国との経済協力にも注力していますが、安全保障は日米同盟が基軸であるだけに、アジア諸国とは微妙な距離感があります。これがドイツと日本両国の今の位置付けです。

 ドイツと日本は、歴史体験において全く共通する側面と相当違う側面があるので、これを一度振り返っておきたいと思います。共通する側面としては、ドイツと日本は連合国を相手にお互いに熾烈な戦いをして、みじめな敗戦を喫しましたが、その後たくましく経済復興、発展を果たしたという点で、相似形のようです。しかし、外見的な共体験の中身を見ると、ドイツ、日本それぞれ固有の経験があり、その違いをわれわれはよく知っておく必要があると思いますし、ドイツを理解する上でも、また、日本のあり方を自ら反省する上でも知っておいた方がいいでしょう。ドイツはある意味で日本の鏡のような面があるからです。


●ドイツ分割統治-冷戦下の2つのドイツ、2つのベルリン


 ドイツの経験からいきますと、敗戦後ドイツは米英仏ソの4カ国に直接占領されました。それは、アドルフ・ヒトラーが最後まで抵抗を続けたためで、連合国はベルリンをはじめ主要都市を徹底的に攻撃し、破壊したのです。ヒトラーが自殺した後、連合軍はドイツを直接占領する形になりました。その後、米英仏の連合国とソ連の対立が激化して、ドイツは米英仏グループによる西ドイツとソ連が支配する東ドイツに分断され、分割統治されることになったのです。

 ベルリンは東ドイツに位置しますが、かつての首都として地政学的にも戦略的にも重要な位置と役割があり、しかも、ベルリンには西ドイツへの帰属を望む市民が多くいました。そこで、ソ連のベルリン封鎖に対抗して、連合国、特にアメリカ軍は約1年間、ベルリン市の中心部ブランデンブルグ門の西側の西ベルリンに軍用機で、食料だけでなく水や石炭まで絶え間なく空輸し続けたのです。そうして、西ベルリン地区を確保しました。

 この作戦を指揮したジョージ・マーシャル将軍の名を冠したマーシャルプランが、大規模なドイツ復興支援プログラムとして戦後のドイツならびに欧州復興に果たした役割は極めて大きいものがあります。ドイツで耳にしたのですが、冷戦体制下にも引き継がれたこうした手厚い西ベルリンへの支援のせいか、ベルリン市民には今でも支援依存体質が染みついているということです。


●東西の戦後復興の明暗から、ベルリンの壁、再統一まで


 東ドイツはソ連の支配下に置かれましたが、西ドイツが目覚ましく戦後復興を達成していったのとは対照的に、東ドイツの経済発展は大きく遅れました。西と東の復興と経済発展の著しい差は、もちろん自由競争の資本主義と計画統制経済の共産主義の違いによるところが大きいといわれていますが、東ドイツではソ連が経済発展を支援しなかったばかりか、何と工場の設備から鉄道のレールに至るまで引きはがして、そっくりソ連に持ち去ったということにより、非常に大きな(経済的)空白を生んだということです。

 一方、対照的に、西ドイツはマーシャルプランなどによる経済援助が実行され、また、連合軍による爆撃はあったものの、西ドイツの産業設備はそれほど破壊されていませんでした。これは、西ドイツの経済が多極構造だったということも関係しているかもしれませんが、敗戦後の生産設備を調べてみると、約8割は使用可能だったそうです。日本よりずっと破壊は軽度だったのですね。おそらくその設備も活用して、経済発展が行われたと思います。

 西ドイツの復興と経済発展が目覚ましかったので、東ベルリンの市民の多くは西ベルリンに逃げようとしました。ソ連はそうした人材流出を止めるため、1961年にベルリンの壁を構築しました。それは、1989年に崩されるまで28年にわたって東西分断の象徴になりました。

 1989年、ベルリンの壁崩壊の機を捉えて、西ドイツのヘルムート・コール首相は一気呵成にドイツ民族の悲願である東西ドイツの統一に邁...
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