編集長が語る!講義の見どころ
《今を知る》夏の終わりの哲学特集(令和8年版)/特集&板東洋介先生【テンミニッツ・アカデミー】

2026/08/26

いつもありがとうございます。テンミニッツ・アカデミー編集長の川上達史です。

いよいよ8月も終盤です。皆さま、今年の夏の終わりの気分は、いかがでしょうか?

夏の終わりは、どこか独特の気配を連れてきます。あるいはそれは、初恋であったり学生時代の怒涛の日々であったりが、もはや遠くなってしまったことに気づいたときのような、懐かしさと憧れとが入り混じった、えもいわれぬ感慨かもしれません。

憧れ、喪失、自省から導き出されるものは何か?

今年の「夏の終わりの哲学特集」では、そのようなことを真正面から考えることができる講義を集めてみました。


■今を知る講義まとめ:夏の終わりの哲学特集(令和8年版)

https://10mtv.jp/pc/feature/detail.php?id=304&referer=push_mm_feat

◆板東洋介先生:本居宣長が考えた「もののあはれ」と倫理の基礎
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=5226&referer=push_mm_rcm1

◆津崎良典先生:「我思う、ゆえに我在り」はデカルトの専売特許ではない
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2527&referer=push_mm_rcm2

◆納富信留先生:アリストテレス、ニーチェ…哲学者によるギリシア悲劇批評
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=4349&referer=push_mm_rcm3

◆一ノ瀬正樹先生:不作為(◯◯しなかったこと)の原因は無限に拡散する
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=1629&referer=push_mm_rcm4


■ピックアップ講義:本居宣長に学ぶ、日本人の道徳の基盤は「あはれ=憧れと共感」?(板東洋介先生)

本日は特集より、板東洋介先生(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)の《もののあはれと日本の道徳・倫理(全4話)》講義を紹介いたします。

日本人の道徳の基盤について、板東先生は本居宣長の説く「もののあはれ」に基づきつつ、お話しを進めていきます。

たとえば日本人は、宗教について問われたとき、「自分は無宗教だ」などと述べがちです。あまり明確な「宗教的戒律」があるわけでもありません。

そのため、「日本人は道徳的ではない」といわれることもあります。実はそれような議論は、ずっと昔からありました。

しかし、「日本人は、神を信仰せぬ、危険で傲慢な人間」「日本人は非道徳的」などといわれると、逆に、大いに違和感を覚えることも確かです。「いやあ、そんな感じでもないんだけどなあ」と。

どうやらそこには、外国とは少し違う、日本人特有の「感覚」や「感性」があるのではないか。

そこで考えるべきが、本居宣長が説いた「もののあはれ」論です。

この視点から「道徳・倫理」について考えていったとき、見えてくるものは何か――。本居宣長の議論は、日本人の本質を的確にえぐりとり、現代の私たちの心の奥底にまっすぐに刺さります。

◆板東洋介先生:もののあはれと日本の道徳・倫理(全4話)
(1)もののあはれへの共感と倫理
本居宣長が考えた「もののあはれ」と倫理の基礎
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=5226&referer=push_mm_rcm5

最初に板東先生は、本居宣長が考えた「もののあはれ」について、イラストを用いてわかりやすく教えてくださいます。簡単にいえば、「もののあはれ」とは、次のようなことになります。

《人間は外界のいろいろな対象に心を動かされる。美しいもの、憧れるもの、おぞましいこと、腹立たしいこと……。その大きな心の動きによって、「ああ」とか「はれ」などといったため息をもらす。そのため息こそ、「あはれ」である。つまり「あはれ」とは、外界のものに心を動かされた感動である》

さらに、板東先生が本居宣長の「もののあはれ論」で注目している要素として、「欲と情」ということもご指摘くださいます。

《「欲」とは、財宝や食べ物など、人間の欲望を喚起するものを「むさぼり欲しい」と思う心。「情」とは、いずれ散ってしまう花や、手が届かない美しい異性など、「欲しいのに手に入らないこと」がわかっていることについて、「ああ」とため息をもらすような深い感動の心》

「欲しいな」と思うのと、「欲しいのに手に入らない、ああ」と思うのとでは、圧倒的に後者のほうが感動が深い。特に、届かないときには「悲しみ」にもなる。だから「あはれ」というと悲しみというように意味が変遷してきたのだ。

そのようなご説明で、本居宣長の説く「もののあはれ」の本質が明確に伝わってきます。

さて、では、なぜそのような「もののあはれ」論が、日本人の道徳・倫理を説明するものとなるのでしょうか。板東先生はこうおっしゃいます。

《相手に届かない切ないため息は、1人の人では済まなくて、それを見ている他の人がいるわけです。その他の人たちは、自分の隣にいる誰かが何かに挫折した、切ないため息ということに共感ができるわけです》

本居宣長は、それぞれが切ない思い、切ない挫折を抱えあって、それに対する深い思いを持って生きているということに人間同士が共感し合うということが、人と人の間の道や、ふるまい方の基礎、つまり倫理の基礎になると考えたのだといいます。

「切ない思いや、挫折への共感」。これは、まことに興味深い視点といえましょう。

さて、なぜ本居宣長はこのようなことを強調したのでしょうか。

それこそ、江戸時代に「日本人は道徳的ではない」とする議論があったからなのです。当時、儒学者たちは、こういったといいます。

《仁義礼智などといった道徳上の基礎概念は、日本人は中国音の「音読み」をしている。一方、たとえば「神」などといった言葉には、「かみ」という訓読みがある。道徳的な言葉を音読みしているのは、日本にはそれに対応する言葉がなかったからである。すなわち、道徳を語っていなかった証拠だ》

このような言説を、本居宣長は批判していったわけです。その批判の数々を、板東先生は本居宣長の原文を引用しつつ、ご教示くださいます。

本居宣長の言葉は「やまと言葉」を多く使っていますので、耳で聞いていると、意味が伝わってきます。さらにそれをわかりやすくご解説くださるので、深く理解することができます。

さらに本居宣長は、「道徳的な言葉があることは、道徳的であったこととは別だ」とも主張しました。

その例として板東先生は、「ゴミ捨て禁止」看板を挙げられます。「ゴミ捨てがきちんと行われている道徳的な地域であれば、『ゴミ捨て禁止』などといった言挙げはなされない」と。

まさに、おっしゃるとおりでしょう。

では、このような本居宣長の「道徳観」で、現代の諸相を見たらどうなるか。そのことを、板東先生は第3話以降でご展開くださいます。

第3話では、メディアでも大いに騒がれる「不倫バッシング」について。

第4話では、コロナ禍のときの「マスク」や「自粛警察」のようなあり方について。

現代的な課題で考えていくことによって、日本人の感性が見事に浮かび上がってきます。ぜひご覧ください。

さらに、第4話の最後では、そのような「日本人の道徳観」を、海外で説明するにはどうするかにまで話が及びます。その板東先生のお話も、まことに核心をついた共感性に満ちた内容です。思わずハッとすること、うけあいです。

日本人の道徳や倫理を考えるためばかりでなく、日本人とは何か、日本文化とは何かを深く知るためにも、必見の講義です。


(※アドレス再掲)

■今を知る講義まとめ:夏の終わりの哲学特集(令和8年版)
https://10mtv.jp/pc/feature/detail.php?id=304&referer=push_mm_feat

◆板東洋介先生:もののあはれと日本の道徳・倫理(1)
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=5226&referer=push_mm_rcm6


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