●形而上学は「見えないもの」を探求する
ここまで見てきたような諸問題性から言っても、原因と結果の迷宮性は明らかだと思います。そして、かつてヒュームによって指摘された「因果関係それ自体は観察されない」という性質にもう一度立ち返ってみれば、もっと迷宮の深みに落ち込んでいくのではないかと思います。
それはどういうことか。これは今日の哲学における因果論の中でも、ホットな話題の一つです。もともと因果関係は、見えないものに対しては語られます。これまで言ってきたように、「テーブルをたたく」「音がする」、でも「テーブルをたたくことによって音がする」ということの、「ことによって」という因果関係は見えません。そうした「見えないもの」を扱うのが、因果関係の考察でした。
少し話がそれますが、そういう「見えないものについて語る」分野は形而上学といわれます。形而上学とは、死後の問題や神の存在などについて語る領域のことです。実は因果性の問題も、哲学の世界では形而上学の問題として語られます。なぜかというと、見えないものだからです。見えないにもかかわらず、私たちの世界でそれを使ってしまっているものです。非常に不可思議なものです。
哲学とは、ソクラテスが「無知の知」と言ったように、私たちが通常、自明だと思っていること、「当たり前だろう」と思っていることが、実は深く考え始めると、不可思議なことに満ち満ちていることに気付いてもらう試みのことです。ある意味では、それが哲学の真骨頂です。だから「たたくと音が出る」という当たり前のことの中にも、実はよく考え始めると、分かっていないことがいっぱいあります。このことを知ってほしいのです。そのことで、「絶対にこれが正しい」とか「自明である」ということが、いかにうつろなものであるかを理解してもらう。これが哲学の一つの目的です。
●「花が枯れた」のは「フローラの不作為」が原因か
だとすると、「ないもの」に対して語られる場合、「ないもの」それ自体、もともと見えないものが因果関係だとすれば、その「ないもの」それ自体に対しても因果関係は語り得るのではないか。こういう発想が、当然出てくると思います。
ここで出てくるのが、「不在因果の問題」です。omission involving causationともいいます。「不作為が関わっている因果」ということです。有名な例を出し...