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不作為を原因にすれば誰もが責任者であり得る

原因と結果の迷宮~因果関係と哲学(7)野放図に拡がる因果関係の世界

一ノ瀬正樹
東京大学名誉教授
情報・テキスト
東京大学大学院人文社会系研究科教授・一ノ瀬正樹氏が指摘する「野放図因果」の射程は広い。育児放棄によって害された子どもの責任はどこにあるのか。私たちは普通「親にある」と考える。しかし、野放図因果の枠組みで考えれば、「何もしなかった」のは親だけではない。不作為を原因に考えれば、なんと、あらゆる人にその責任は帰属するのだ。(全8話中第7話)
時間:07:33
収録日:2016/12/15
追加日:2017/03/25
≪全文≫

●「やらなかった」責任は、どこまでも拡がり続ける


 野放図因果の問題はもっと普遍的で、いろいろな因果関係に全て当てはまってしまうのです。特にこういう不作為、「何々しない」ということに関しては、もうほとんど当てはまってしまいます。

 例えば、飛行機の整備士の不注意で事故が起こってしまった場合、通常は「飛行機の整備士がきちんとチェックしていれば、事故は起こらなかっただろう」となって、飛行機整備士の不注意が原因とされます。しかし実は、その整備は、件の整備士ではなく、同僚の別の整備士がやれば良かったのではないかともいえます。あるいはその他の会社のもっと偉い人、かつて技術畑にいた偉い上司が見てあげれば良かったのではないかなど、いろいろいえてしまいます。あるいは、その特定の飛行機整備士以外の有能な整備士に「点検しろ」と命じることは、社長だってできたということがあります。

 また、育児放棄によって子どもが害されたり、場合によっては子どもが死亡してしまうということがあります。これも育児放棄をせず、親がきちんとケアをして食事を与えて衛生的なことも保ってあげていれば、子どもは害されることはなかったでしょう。でも別に親だけが責められなくてはいけないわけではありません。親以外の他の人、例えばおじさんやおばさん、あるいはいとこがやっても良かったわけです。

 「子どもが害された原因は育児放棄だ」というとき、私たちはある種の飛躍をしています。「親が育児放棄をし、子どもに何もケアをしなかった。だから親の責任だ」、ということです。でも別に、親ではない人がケアしても良かったわけです。この「何々しなかった」というのは、親に限らず、他の人もしなかったということでは同じでしょう。ここでの問題は正確には、「他の人もしなかった」のではなく、「なぜ親のしなかったことが(子どもが害されたことの)特定の原因、あるいは最も有力な原因としてピックアップされるのか」ということです。これが別の議論によって補われないと、原因指定にならないのです。

 放射線教育の欠如によって、恐怖による害が生まれてしまうこともあります。これは原発事故など、さまざまな放射線に関わることです。「ベクレル」や「シーベルト」がどういうものであるか。あるいは放射線は、自然現象としてどういうものが現に存在しているか。こういうことについて、小さいときから教育を受けている人とそうではない人では、行動に大きな差が出てしまいます。だからこれは、恐怖による害だといえます。

 かといって、学校が放射線教育をすれば良かったというのも飛躍です。学校だけではありません。学校以外のいろいろな場所でも放射線教育は可能だったはずです。親がすれば良かったかもしれない、ということにもなります。

 あるいはこのような例も考えられます。基準が充足されていない建築によって、その建物が倒壊してしまった、とします。これも、基準が充足されていれば倒壊しなかったとはいえるのですが、では建築士が悪いのか、それとも工事を請け負った会社が悪いのか、因果関係はいろいろと野放図に広がっていきます。ここではもう、「ないこと」「しなかったこと」の全てが原因と見なされているわけです。


●「原因の特定」の背後で、私たちの理屈は飛躍している


 野放図因果の問題は、全ての問題へ降りかかっていきます。ある一つの出来事が起こったとき、その出来事がネガティブなことである場合、多くの人は後悔したり責任帰属をしたり、ということになります。その際、「何が原因か」ということによって、出来事の責任が確定していきます。でもその責任の確定は、はたして客観的な形で確定できるのかどうか。ここが先ほどからお話ししていることと深く関わる論点です。

 本当に客観的なことによって、責任が確定されているわけではありません。実際は、私たちが生きている社会の制度や言葉遣い、その他の知的なネットワークとの整合性など、そうした多様なものによって、責任帰属は決まっています。もともと原因と結果は、それ自体どこにも観察されないものです。だから、原因と結果の確定によって責任帰属する場合は、どこかで何らかの飛躍が起こっています。このことを、ぜひ理解してほしいと思います。

 とはいえ、飛躍が起こっているから「責任なんてどこにも帰属できないんだ」ということを、私は言いたいのではありません。言いたいのは、客観的に「絶対にこの人が悪い」あるいは「絶対にこのことが原因なんだ」とは、厳密には言えないということです。

 客観的なものではない仕方で責任や原因が決まっていれば、それはそれでいいし、実際に私たちはそういう社会で生きています。机から音がしているのは、私がたたいたからだ。このように、もうほぼ紛れもなく100...
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