●「因果関係」をもう少し厳密に考えてみる
「原因指定の非決定性」が発生してしまう根底にはどんな事情があるか。そもそもの基本的事態として、因果関係自体は観察できないということがあります。何回も例に挙げていますが、机をトントンとたたくと音がするとき、この音の原因は、私がたたいたことだと普通は理解します。
しかし、ここで観察できている現象は何なのかをもう少し厳密に考えてみましょう。私が手を動かしてテーブルに指を当てることまでは、目で知覚できます。さらに音がすることは耳で知覚できます。しかし、「私がたたいたことによって音が出ている」と言うとき、その「によって」の部分を人間は知覚できているだろうか。ここが問題なのです。
「によって」は、観察内容の中に含まれていません。「起こっている」とは、「私が手を下げてたたいたら、音がした」ということで、それは時間の経過とともに続いて出来事が起こったことを言っているだけです。それ以外のどこを探しても、「によって」を観察することはできません。
このことを、デイヴィッド・ヒュームという、18世紀スコットランドの哲学者が洞察しました。Aというタイプの出来事とBというタイプの出来事が、いつもつながって起こること、これをヒュームは「恒常的連接(constant conjunction)」といいます。ヒュームによれば、これだけが、私たちが「因果関係」と言っていることに関して、データとして受け取る全てである、ということです。「たたいた」「音がした」、「たたいた」「音がした」、「たたいた」「音がした」、これだけです。「たたいたことによって音がした」の、「ことによって」という部分は、何をやっても、どこからも見つけることはできない、ということを暴き出したのです。
このヒュームの洞察を知って、イマヌエル・カントというドイツの哲学者は慌ててしまいます。自然科学によって世界を理解している根本は因果関係だと、カントは考えたのだと思います。現代の自然科学では、必ずしも因果関係が基本的関係であるとはされていないと思いますが、カントの時代はそう考えられていました。そうだとすると、自然科学が客観的に正当であることの根拠がなくなってしまうではないかと、カントは非常にショックを受けたのです。
●因果関係は、わたしたちの理解の「癖」に過ぎない
そうした恒常的連接の関係を...