DATE/ 2016.05.02
第6回 猫に話しかける
朝、目が覚めると、リビングから「ゴハンにしようね~」という美子ちゃんの声が聞こえてきます。「あれ? もうゴハンなのか」と思って起きると、ぼくらのゴハンじゃなくて、ねず美ちゃんにゴハンをあげているのです。
美子ちゃんは、まるでねず美ちゃんが言葉をわかっているかのように話しかけます。子どもに話しかけるように、「あとで遊んであげるからね~」とか言っているのです。
ぼくはそれまで、猫に話しかけたことなんてありませんでした。猫は猫、人間は人間です。猫が可愛いと思うことがあっても、猫と話ができるなんて思ったことがありません。
寝ていると背中に乗ってきて…。
ぼくは岡山県の山奥の村で生まれました。子どものころは、まだ原始共産性みたいな風習が残っていて、イノシシが獲れるとその肉を一軒一軒均等に分け合ったりしていました。動物性蛋白質が全般的に不足していたので、わが家で飼っていた山羊も「そろそろ食べようか」ということになり、父親が殺してしまいました。ところが一番食べたがっていた父親が食べないのです。殺したときの山羊の悲鳴や表情が頭に残っていて食べられないと言うのです。そういうワイルドな環境で、ぼくは子ども時代を過ごしたのでした。
猫を飼ったのも子どものときでした。どこからか来た猫が勝手に住みつき、飼うというより、なんとなく家のまわりにいるといった感じでした。ときどき食べ残しのご飯に味噌汁をかけてあげると食べていましたが、猫は食べ物を自分で調達するというのが基本になっていて、イナゴやらトカゲやらを捕まえて食べていたようです。
あるとき、その猫が山鳩を獲りました。くわえられないぐらい大きい山鳩で、後ずさりしながら山鳩を引っ張って家まで帰ってきました。ぼくらに見せようとしたのだと思います。
鳥類はそれまで食べたことがなかったのですが、その山鳩は見るからに美味しそうだったので、猫の頭をナデナデして山鳩をサッと取り上げたら、猫はウニャ~と唸りました。苦労して獲った山鳩を、ぼくらに見せようと必死で引っ張ってきたのに取り上げられてしまったわけですから、怒るのも無理はありません。
その山鳩は焼いて食べました。猫にもおこぼれをあげたら喜んで食べていました。猫を飼うといってもそういう感じだったので、猫を抱いたり、猫と寝たり、ましてや猫と話したりしたことなんてありませんでした。
美子ちゃんは、猫は名づけられ話しかけられることによって自我が育ち、それぞれの個性も出てくると言います。だからねず美ちゃんに話しかけなさいと言うのですが、なんとなく照れくさくて話しかけられません。それでも「い~子ちゃん、い~子ちゃん」とか言っているとだんだん慣れてきて、少しづつ話しかけられるようになりました。何か言うとじっとこっちの目を見て、ぼくが話したことを理解しようとしているようなときもあります。美子ちゃんが言うように、ねず美ちゃんも自我が育ってきているのかもしれません。
猫も自我が育つのか。
ねず美ちゃんに話しかけるようになって、ねず美ちゃんがぼくにより懐いてきたようです。美子ちゃんがいないところで、ぼくの足にすり寄ってきたり、ぼくが机に向っていると机に上がってきてじっとぼくを見たり、ひょいと肩に乗ったりするようになりました。ぼくがコタツに入って本を読んでいると、ねず美ちゃんも入ってきて、気がついたら一緒に眠っていたこともあります。
猫がそばにいると不思議と眠くなる。
猫はなんの役にも立たないのに、人間に可愛がられることで生き延びてきました。猫と人間の歴史は5000年とも10000年とも言われています。その間に培われた人間をトリコにする術で、猫好きはどんどん増えてきました。ぼくもその術にあっさりはまってしまったようです。
美子ちゃんは、まるでねず美ちゃんが言葉をわかっているかのように話しかけます。子どもに話しかけるように、「あとで遊んであげるからね~」とか言っているのです。
ぼくはそれまで、猫に話しかけたことなんてありませんでした。猫は猫、人間は人間です。猫が可愛いと思うことがあっても、猫と話ができるなんて思ったことがありません。
ぼくは岡山県の山奥の村で生まれました。子どものころは、まだ原始共産性みたいな風習が残っていて、イノシシが獲れるとその肉を一軒一軒均等に分け合ったりしていました。動物性蛋白質が全般的に不足していたので、わが家で飼っていた山羊も「そろそろ食べようか」ということになり、父親が殺してしまいました。ところが一番食べたがっていた父親が食べないのです。殺したときの山羊の悲鳴や表情が頭に残っていて食べられないと言うのです。そういうワイルドな環境で、ぼくは子ども時代を過ごしたのでした。
猫を飼ったのも子どものときでした。どこからか来た猫が勝手に住みつき、飼うというより、なんとなく家のまわりにいるといった感じでした。ときどき食べ残しのご飯に味噌汁をかけてあげると食べていましたが、猫は食べ物を自分で調達するというのが基本になっていて、イナゴやらトカゲやらを捕まえて食べていたようです。
あるとき、その猫が山鳩を獲りました。くわえられないぐらい大きい山鳩で、後ずさりしながら山鳩を引っ張って家まで帰ってきました。ぼくらに見せようとしたのだと思います。
鳥類はそれまで食べたことがなかったのですが、その山鳩は見るからに美味しそうだったので、猫の頭をナデナデして山鳩をサッと取り上げたら、猫はウニャ~と唸りました。苦労して獲った山鳩を、ぼくらに見せようと必死で引っ張ってきたのに取り上げられてしまったわけですから、怒るのも無理はありません。
その山鳩は焼いて食べました。猫にもおこぼれをあげたら喜んで食べていました。猫を飼うといってもそういう感じだったので、猫を抱いたり、猫と寝たり、ましてや猫と話したりしたことなんてありませんでした。
美子ちゃんは、猫は名づけられ話しかけられることによって自我が育ち、それぞれの個性も出てくると言います。だからねず美ちゃんに話しかけなさいと言うのですが、なんとなく照れくさくて話しかけられません。それでも「い~子ちゃん、い~子ちゃん」とか言っているとだんだん慣れてきて、少しづつ話しかけられるようになりました。何か言うとじっとこっちの目を見て、ぼくが話したことを理解しようとしているようなときもあります。美子ちゃんが言うように、ねず美ちゃんも自我が育ってきているのかもしれません。
ねず美ちゃんに話しかけるようになって、ねず美ちゃんがぼくにより懐いてきたようです。美子ちゃんがいないところで、ぼくの足にすり寄ってきたり、ぼくが机に向っていると机に上がってきてじっとぼくを見たり、ひょいと肩に乗ったりするようになりました。ぼくがコタツに入って本を読んでいると、ねず美ちゃんも入ってきて、気がついたら一緒に眠っていたこともあります。
猫はなんの役にも立たないのに、人間に可愛がられることで生き延びてきました。猫と人間の歴史は5000年とも10000年とも言われています。その間に培われた人間をトリコにする術で、猫好きはどんどん増えてきました。ぼくもその術にあっさりはまってしまったようです。