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全国に広がった「空襲を記録する会」の運動

東京大空襲と私(2)「空襲を記録する会」と戦災誌の編纂

早乙女勝元
元東京大空襲・戦災資料センター名誉館長/作家
概要・テキスト
一面の焼け野原から出発した東京の復興を後押ししたのは、1950年の朝鮮戦争勃発に伴う特需景気である。しかし、横田や入間の米軍基地から飛び立つB-29の行く手に、民間人の多大な被害が待っていることはあまりに明らかだ。苦渋の中、東京大空襲・戦災資料センター館長で作家の早乙女勝元氏は「生い立ちの記」として小説を書き始める。それが、空襲記録運動の始まりとなる。(全3話中第2話)
※撮影協力:東京大空襲・戦災資料センター
時間:11:41
収録日:2018/03/26
追加日:2018/08/01
≪全文≫

●戦後5年、東京の空にB-29が帰ってきた


 戦後、私は昭和21(1946)年に国民学校高等科を卒業して、町工場に働くようになりましたので、学歴は中卒でしかありません。自分で自分がかわいそうに思える青春の中で、とにかく読むことは好きでした。だから、廃品回収業の友達の家へ行っては、バラバラになった『少年倶楽部』などを拾い集めてきてはむさぼり読んで、活字に親しむことを覚えます。そこから文章書きになりたいなという気持ちに駆られました。

 そして、17歳から18歳にかけて、私がどうしても書いておかねばならない状況が必然的にやってきました。それは昭和25年に始まる朝鮮戦争です。もちろん、日本が手出しをした戦争ではありません。日本は連合国軍の占領下にあったからです。

 連合国軍といっても、主体は全部アメリカ軍です。在日米軍が全て朝鮮半島へ出撃していく中、私が最も気になったのは、あのB-29がマリアナ諸島ではなく、今度は東京の横田、埼玉県の入間などという米軍基地から連日のように朝鮮半島へ爆撃に行く日を迎えたことです。

 その爆撃の下がどうなっているか、容易に想像が付くではありませんか。でも、食うや食わずの時代です。アメリカが戦争をするために必要とする諸物資を本国から取り寄せるゆとりはありませんから、閉鎖状態になっていた日本の軍需工場に発注したことから、「特需景気」というものが巻き起こりました。


●300枚の「生い立ちの記」を書く


 日本はこの特需景気によって、焼け跡、闇市の時代を脱出することになるのです。しかし、B-29の爆撃の下が気になって気になって、何かできることはないかと思い詰めた私は、「そうだ、文章を書くことならできるかもしれない」ということで、今でいう「自分史」を書こうと思いました。

 当時は「生い立ちの記」と呼ばれていましたが、300枚を目標にしました。30枚くらいなら誰でも書けるかもしれませんが、300枚は決して少ない枚数ではありません。当時、私は宮本百合子さんという作家が17歳で『貧しき人々の群』を書いているのを読んだのです。17歳から18歳になりかけていた私は、「彼女がこれだけのものが書けたとするならば、私だってもしかして」という思いで、そう苦労せずに300枚の記録を書き終えました。

 その記録は、戦争中の貧困と食うや食わずの食糧難、その後、生きるか死ぬかの空襲の日々の連続などな...
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