●中曽根さんによいタイミングで国鉄改革を提起することができた
―― 名誉会長のご著書『未完の「国鉄改革」』を拝読し、40代のときに、国鉄改革で、強烈に戦いましたよね。しかも、名うての革マル相手にやり合うというのは、すごい環境ですよね。
葛西 このままいけば国鉄は絶対に衰退して、もう誰にも意見を聞いてもらえないぐらい、みんなから信用されない組織になってしまうと思っていました。しかしその前に、たまたまよいタイミングで、中曽根康弘さんが行政管理庁の長官に就いたのです。行政改革がうまくいかなければ、彼は一生の目標である総理大臣になることができませんから、そのために何かやらなければいけないと考えていました。そこに、こちらから「国鉄改革をやるのが一番いいと思います」と提起できる場が与えられたのです。
中曽根さんが行政管理庁の長官になったとき、岸信介さんのところにアドバイスを求めに行ったそうです。岸さんは、「行政改革というのは、日本の2000年の歴史の中で、成功した例は3回しかない。一つは大化の改新、二番目は明治維新、三番目は大東亜戦争の敗戦。この三つだけなのだから、君、自分は行政改革ができるなどと軽々しく思わないほうがいい」と言われたそうです。中曽根さんはそれを聞いて、「全部変えるなどということは無理だから、一番やりやすい改革をやろう」と考えました。それが、三公社の民営化でした。
三公社のうち、電電(日本電信電話公社)と専売(日本専売公社)は自らを改革したがっていましたが、国鉄は絶対に嫌だと抵抗していました。しかし、世の中の人たちからは「国鉄だけは何とかしてくれ」と思われていたのです。
●国鉄改革は百に一つの可能性しかない賭けをしているようなもの
葛西 私はそのとき、第二臨調(第二次臨時行政調査会)を担当していました。1981年3月に第二臨調が発足し、4月に担当になりました。5月から7月にかけてヒアリングがありましたが、そのときは何も方向が決まらず、ただ聞くだけでした。しかし、9月には、すでに「ターゲットは国鉄」と決まっていたのです。おそらくその間に岸さんと中曽根さんの会話があったのかなと思いました。しかし、こうした天の時のようなものを巡り合わせとして持ったというのは、運がよかったです。
私はどちらかと言うと、改革を先延ばしして、少しずつ沈むなどいうのは嫌でした。やはり今の国鉄はだめだから、これを叩き直すためには何か力が必要だと考えていました。世の中でもそうですが、国鉄の中でも予算決定権や人事権を握っているところが強かったので、第二臨調の担当になったとき、そういう人たちに働きかけました。
ところが、臨調相手の説明の仕事などというのは、何の力もないポジションでしたから、「あいつを持っていっても何の実害も起こすことはできないだろう」と思われていました。たまたまその年が新しい再建5カ年計画の発足の年だったこともあり、私が働きかけた人たちはみな、「まず五カ年計画をやってみせて、その上でだめなら改革に着手すべきだ」と言うのです。「5年先送り」というのが当時の国鉄の主流だったのですが、そんなことをしていたのでは間に合わないので、「もうこれでは、計画が生まれたときにすでに子どもが死んでいるのと一緒です」「死んで生まれた子どもなのだから、この機会を利用して、もっと徹底的な抜本策をやらなければいけない」と、いろいろな人に説明して回りました。ですが、最初は誰も耳を傾けてくれませんでした。
しかし、9月以降になったら、第二臨調は国鉄に焦点を当てていました。ちょうどよいタイミングだったのです。それから、ぐるぐると改革が終わるまでに6年かかったのです。41歳から46歳の年までが改革で、47歳の1987年に民営化ができました。ですから、その間は本当に、なにか百に一つとか、十に一つの可能性しかない賭けをしているようなものでした。普通ならば絶対に途中で潰れていたと思うのですが、国がどうしても改革を必要としている時期だったせいか、圧倒的少数でしたが、なんとなく生き残りつつ、うまくいくことができたという感じでしたね。
―― でも、改革派は本当に圧倒的少数だったようですね。周り全部が敵で。自民党でも賛成派は橋本龍太郎さんと三塚博さんくらいしかいなかったのではないですか。
葛西 敵でしたね。自民党でさえ、田中派は敵でしたからね。賛成派は、中曽根さんと後藤田正晴さんでした。ですから、中曽根さんご自身も「別に総理大臣にならなくてもいい」と言われていましたし、総理になったときも「田中曽根」などと言われていましたよね。でも、彼は国鉄に焦点を絞った。今、中曽根内閣が終わってみて、彼は何をやったのだろうかと振り返ったときに、まずみんなの頭に浮かぶのは...