●第一は、君主の道とは何か
それでは、本文に入りたいと思います。まず「君道第一」というところから、この書物は始まっています。これは、君主の道、君主のあり様ということです。まさにこれが、この本の肝であり、これが何かを説くために、この本があるのだといっても過言ではない。その「君道第一」を丁寧に読んでいきたいと思います。
「貞觀の初、太宗、侍臣(じしん)に謂ひて曰く」。貞観の始まりは、先ほどから申し上げているように、626年、すなわち太宗(李世民)がトップになった年です。その時に侍臣、これは左右に「さぶらう」(侍はここからきた言葉です)人です。「さぶらう」とは、お付きの臣下という意味です。それが左右にいる。この人たちは、多くは「左右史」とも呼ばれ、トップの発言を全て正確に筆記するという役割を負った人です。そういう意味もあって、この侍臣という言葉が出てきます。
「侍臣に謂ひて曰く、君たるの道は、必ず須(すべから)く先づ百姓(ひゃくせい)を存すべし」。百姓は、今でこそ「農民」という意味でしか使っていませんが、正しくは、これは百の姓を指します。いろいろな姓名がありますよね。それを言っているのですから、百姓といえば国民、民(たみ)という意味です。
●君主の道は「この国で良かった」と民に思わせること
まず何のために君たる道があるのかと言えば、民を存するためである。「存す」とは、民の存在を明らかにすることです。存在を明らかにするとはどういう意味かと言うと、みんな一人一人が「生まれてきて良かった」と思えることです。
「社長の道は社員を存すべし」と言います。社長の役割は、「この会社へ入って生きていて良かった」「この会社に入って仕事して暮らしていて良かった」と思わせること、そういうところにある。同じように、国民一人一人に「生まれてきて良かった」と思わせるところに、この本の着眼があるということが言われています。
反対に、「若し百姓を損じて以て其の身に奉ぜば」とも言います。当時は多くの場合、例えば戦争になれば民、百姓は駆り出されます。あるいは朝廷の建物を修繕するとか、造園、大変な園庭を造るなど、これらも全部使役となって、民が駆り出されていました。その上、税金というものを取る。税金でもって国家は成り立っているわけですから、税金を取らざるを得ない。「百姓を損じて」とは、百姓に損ばかりを強いるということです。
そこで「身に奉ぜば」とは、全てをトップのために奉仕させることを指します。それは「猶ほ脛(はぎ)を割きて以て腹に啖(くら)はすがごとし」。これは有名な比喩です。脛とはすねです。つまり、自分のすねの肉を切って、それを食べているようなものだということです。「すねをかじる」という言葉も、こういうところから来たものですが、「脛を割きて以て腹に啖はすがごとし」。
民がいて初めてトップが成り立つわけですから、民といえば自分のすねのようなものである。それをこき使って、それを割いて自分で食べているような状態になればどうなるかというと、「腹飽きて身斃(たお)る」。腹がいっぱいに朽ちて、その瞬間に両足をなくし、倒れてしまうということを言っています。
●国の滅亡は、内部崩壊から生じる
「若し天下を安んぜんとせば」、天下安泰にしようと思えば、「必ず須く先づ其の身を正すべし」。『貞観政要』全編にわたって、何回も何回も出てくるのは、歴史を顧みて外からの侵攻だけで倒れた国はないということです。多くは、内部が非常に崩壊し、内部の結束が緩んでしまった。あるいは、内部が全て飲めや歌えやで乱痴気騒ぎしていると、「あそこはああいう国だから、倒せるかもしれない」といって侵攻されてしまう。周りの敵が侮るぐらい、国家が駄目になる。駄目になる最大のポイントは、ここで言われているように、身が正しくならないことです。誰の身か。トップです。ここがポイントなのです。
「未だ身正しくして影曲がり」。身はぴしっと姿勢が良いのに、影だけが曲がる。影とは、影響のことを言っています。影響とは、「影」です。元があるから影がある。「響」も、元の音があるから響くのです。大本こそが重要であるということを言っている。
それから、「上理(おさ)まりて下亂(みだ)るる」。上、すなわち上層部は非常に治まっているのだけれど、下が乱れているというものはない、ということです。何らかの形で上が乱れている。一見治まっているようだけれど、内部にずっと深く分け入ってみると、上が治まっていないことが多いということです。
●李世民が懸念した権力の恐ろしさ
「朕毎(つね)に之を思ふ」、私はいつもそれを懸念している。「其の身を傷(やぶ)る者は、外物に在らず」。自分の身を破綻に導くものは、外側から...