テンミニッツTV|有識者による1話10分のオンライン講義
ログイン 会員登録 テンミニッツTVとは
テンミニッツTVは、有識者の生の声を10分間で伝える新しい教養動画メディアです。
すでにご登録済みの方は
このエントリーをはてなブックマークに追加

ヒュームの思想では「因果関係は思い込み」と考える

原因と結果の迷宮~因果関係と哲学(3)因果関係は私たちの癖である

一ノ瀬正樹
東京大学名誉教授/武蔵野大学人間科学部人間科学科教授
情報・テキスト
『英米哲学史講義』(一ノ瀬正樹著、筑摩書房<ちくま学芸文庫>)
東京大学大学院人文社会系研究科教授・一ノ瀬正樹氏は、「究極の原因は決定され得ない」ことの根底にあるのは、因果関係そのものを人間が観察できないことだと言う。私たちは、「机をたたいた」ことと「音がした」ことしか知覚できないのに、その間に因果関係があると思う。しかし、哲学者デビッド・ヒュームの考えに従えば、それは経験に由来する「思い込み」にすぎない。(全8話中第3話)
時間:06:50
収録日:2016/12/15
追加日:2017/02/25
≪全文≫

●「因果関係」をもう少し厳密に考えてみる


 「原因指定の非決定性」が発生してしまう根底にはどんな事情があるか。そもそもの基本的事態として、因果関係自体は観察できないということがあります。何回も例に挙げていますが、机をトントンとたたくと音がするとき、この音の原因は、私がたたいたことだと普通は理解します。

 しかし、ここで観察できている現象は何なのかをもう少し厳密に考えてみましょう。私が手を動かしてテーブルに指を当てることまでは、目で知覚できます。さらに音がすることは耳で知覚できます。しかし、「私がたたいたことによって音が出ている」と言うとき、その「によって」の部分を人間は知覚できているだろうか。ここが問題なのです。

 「によって」は、観察内容の中に含まれていません。「起こっている」とは、「私が手を下げてたたいたら、音がした」ということで、それは時間の経過とともに続いて出来事が起こったことを言っているだけです。それ以外のどこを探しても、「によって」を観察することはできません。

 このことを、デイヴィッド・ヒュームという、18世紀スコットランドの哲学者が洞察しました。Aというタイプの出来事とBというタイプの出来事が、いつもつながって起こること、これをヒュームは「恒常的連接(constant conjunction)」といいます。ヒュームによれば、これだけが、私たちが「因果関係」と言っていることに関して、データとして受け取る全てである、ということです。「たたいた」「音がした」、「たたいた」「音がした」、「たたいた」「音がした」、これだけです。「たたいたことによって音がした」の、「ことによって」という部分は、何をやっても、どこからも見つけることはできない、ということを暴き出したのです。

 このヒュームの洞察を知って、イマヌエル・カントというドイツの哲学者は慌ててしまいます。自然科学によって世界を理解している根本は因果関係だと、カントは考えたのだと思います。現代の自然科学では、必ずしも因果関係が基本的関係であるとはされていないと思いますが、カントの時代はそう考えられていました。そうだとすると、自然科学が客観的に正当であることの根拠がなくなってしまうではないかと、カントは非常にショックを受けたのです。


●因果関係は、わたしたちの理解の「癖」に過ぎない


 そうした恒常的連接の関係を経験することで、私たちは、片方の出来事が出現すると、他方の出来事を思うよう、言わば強制され習慣付けられます。私が今、手を振り下ろしてテーブルをたたこうとすると、たたく直前から、「音がするだろう」ということを、私たちはもう予想してしまうのです。しかし、厳密にいえば、それは過去の経験によって、そう予想するように強制されており、そういう習慣ができてしまっているからです。過去の経験によって、強制され習慣化し決定されてしまうという感覚、つまり「これこれの原因の後に、これこれの結果が必ず生じる」という感覚が、世界理解の真相であるというのが、ヒュームの出した分析です。

 だから、ヒュームの考え方に従うと、因果関係とは、私たちのものの捉え方の習慣、あるいは「癖」にすぎないことになります。これは非常に衝撃的な議論です。普通、崖から身を投げると落ちますね。でも「崖から身を投げると落ちる」というのは、「ものを投げると落ちる」ことを、幼少時代からずっと経験しているので、そう考えるのです。重力がある場所であれば、支えがないところで手を放すと、ボンと落ちる。「支えがないところで物体を置くと、ボンと落下する」と、置く前から思ってしまっている。そう思わざるを得ないわけです。

 しかし、ヒュームに言わせると、仮に今まで全部落ちたとしても、今回投げた場合、上がったとしても、論理的には不都合さは何もありません。しかし、私たちはそう思いません。一方、ヒュームに従えば、「未来は何が起こったって反則ではない」、つまり、今までは全部落ちたけれど、今度投げたらそのまま上に上がることが絶対ないとはいえないはずです。けれども、そう思わないのはなぜか。それは、今までの経験では「いつも落ちていた」からです。「落ちるんだ」とすでに思い込んでいるからです。この「思い込み」こそが因果関係の本体である。これがヒュームの議論なのです。これは衝撃的な議論です。


●因果関係と相関関係は異なるものである


 しかし、こうした恒常的連接による因果関係理解には、やや問題ある含意が伴います。何かというと、因果関係と相関関係がごちゃごちゃになってしまうだろうということです。20世紀前半の現代哲学では、「共通原因の問題」といわれました。例えば、ハンス・ライヘンバッハは、そういうことを唱えた哲学者の一人です。

 例えば、電車の運転手のお父さん...
テキスト全文を読む
(1カ月無料で登録)
会員登録すると資料をご覧いただくことができます。