●近代以降、考え方が変わって嬰児殺は減ってきた
長谷川眞理子です。今回は、今まで話してきたヒトの子育てに関する繁殖戦略を包括的に考え、児童虐待・嬰児殺しと同じ枠の中で「少子化問題」について考えてみようと思います。
ここまでに、ヒトが共同繁殖でなければ子育てできないこと、また文化が共同の子育てを容認するときには、どのような家族形態から生まれた子なのかを重視していることをお話ししてきました。つまり、ヒトは単に食料や親自身のエネルギー、資源がきちんとあるだけでは子育てできず、みんなの協力が必要だということです。そして、親が周囲から協力を得るためには、その文化で認められている正統な子どもでなくてはなりません。文化規範から外れた子ども、つまり父親が誰か分からないとか、未婚の母であるとか、不倫の子である、といった子どもたちは排除されてしまいます。みんなで努力して子育てしましょうという範疇に入らないのです。
文化は、そうして正統な子どもとそうでない子どもを振り分けてきました。従来は、そうやって地域で協力しなくては何ともならなかったので、不倫はいけないといったことが慣習化・規範化され、その慣習・規範から外れた子どもは母親が殺しても仕方がないという考え方があったのです。
しかし、現代社会になって個人の自由が高まり、お金を出せば、食料などの資源だけでなく、保育所その他の共同繁殖のための社会インフラも手に入れられるようになったため、昔の社会規範で子どもの存在を差別することは少なくなってきました。とはいえ、今でも相続などのとき、嫡出子かそうでないかで細かな差別があるのは、社会が認めた子どもは皆で支えるけれど、そうでない子どもは支えたくないという昔の名残があるからだと思います。
一方、父親が誰か分からなくても、未婚の母でも、不倫の子であっても、子ども自身にはまったく責任がないため、生まれてきた子どもは皆、社会で支えるようにしましょうというのが、近現代の法的な考え方です。近代以降、そうした考え方に変わってきたために、嬰児殺の数は本当に減ってきましたし、社会が許容しない子どもも随分なくなってきています。
●子どもがいないときに子育てを直観的に理解する能力はない
そうした背景の中で「少子化」をどう考えるか。私も考えが全部まとまっているわけではありませんが、現時点での考えをお話ししたいと思います。
これまでの講義で、ヒトはいくつかの段階で、生まれてきた子を手元に取っておくかどうかを決めるチャンスがあることをお話ししました。これが、その意思決定の図です。
セックスから受胎の間には「避妊」という方法があります。妊娠してしまった場合は「堕胎」するという手段があります。また、出産した直後に「嬰児殺」をする決断もありました。その後の子育ての間にも、周囲のサポートが十分でなかったり、母親に子育てを頑張るスイッチが入らなかったりした場合、「虐待」や「ネグレクト」、「遺棄」が起こります。このようにして、母親は節目で感情を横に置き、うまくいくかどうかを冷静に考えた上で今の子育てを続けるかやめるかを決断してきたのです。
しかし最近、大きく事情が変わりました。それ以前の長い間、避妊は不確定でした。避妊が確実にうまくいく保証はどこにもなかったのです。それが、自分たちの意志でかなり確実に避妊できるようになったのはこの数十年のことです。人間の長い歴史から見れば、これは科学技術の進歩がもたらした非常に特殊な状態です。
受胎した後の堕胎、嬰児殺、虐待やネグレクトなどは、全て「この子をどうしよう」という現実の子どもを前にした決断ですが、避妊ができる現在、将来子どもを持つか持たないかは、完全に「子どもがいたらどうだろう」という空想上の判断になります。つまり、今、子どもがいないとして、自分たちが子どもをつくるかつくらないかという、積極的な決断をするということになると、それは空想上の話になるため、私たちは果たして優れた決断ができるのでしょうか。
私は、おそらく人間にはそのような判断を上手に行う脳の機能はないと思います。なぜなら、子どもは本来「できてしまうもの」で、できてしまった後で自然と愛情、愛着のスイッチが入るようにできているものだからです。子どもがいない時点で、将来子どもができたらどう楽しいのか、どのようにコストがかかるのか、どのような良いことがあるのかを直観的に理解し決断する能力は備わっていないのです。
つまり、確実に避妊できるというのはまったく新しい状況であり、私たちは生物学的な基盤がない中で、子どもをつくるかどうかを考えなければならなくなったのです。
●時間割引心理によって出産計画は必ずや延長される
現代の私たちは、子ども...