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当時の陸軍は全く統制を欠いていたと言わざるを得ない

第五章 満洲事変と石原莞爾の蹉跌(9)参謀本部が止められなかったシナ事変

渡部昇一
上智大学名誉教授
情報・テキスト
日本軍による南京城への入城式 (1937年12月17日
Wikimedia Commons
シナ事変は、参謀本部第一部長だった石原莞爾が反対していたにもかかわらず拡大していった戦いであった。当時の陸軍はまったく統制を欠いていたといわざるをえない。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第五章・第9回。※本項には該当映像がありません。
時間:00:09
収録日:2015/02/02
追加日:2015/09/10
≪全文≫
 昭和12年(1937)三月に参謀本部第一(作戦)部長になった石原は盧溝橋事件でも、第二次上海事変でも一貫して不拡大の方針を取り続けるが、やはり説得力がなかった。結局、石原は昭和12年9月に関東軍参謀副長に左遷され、 翌年には舞鶴要塞司令官、昭和14年(1939)には第十六師団長、そして昭和16年(1941)、予備役にされる。これは統制を重んずる東條陸相の意志だといわれる。

 ついでにもう一つ、歴史上の遺憾なことをいえば、日本軍が昭和12年12月13日に南京を落としたときのことである。参謀次長の多田駿中将は「寛大な条件で戦局の収拾を図るべきだ」と主張した。当時、参謀総長は閑院宮であり、多田は実質上、参謀本部の中心であった。その実戦の作戦の当事者が「やめたい」というのを近衛内閣は聞かなかった。第一章で見たように尾崎秀実らに影響された近衛内閣は、シナ側に誠意がないと強硬姿勢を崩さず、昭和13年(1938)1月16日に、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」との政府声明が発表されるに至るのである。

 蔣介石の国民政府を相手にしないで戦争も何もあったものではない。これは近衛内閣の大きな失敗だった。シナ事変の継続を願ったのはスターリンであった。そして近衛のブレーンには左翼が多かったのである。

 何より私が問題だと思うのは、日本の参謀本部が政府を動かせなくなっていたことである。以前なら、作戦計画を立案する参謀本部が「戦争をやめたい」といえば、実際にやめることができた。だが、この肝腎のときには、それができなかったのだ。「戦争をやめる」という重要なことを決められないなら、作戦計画の立案など何の意味もない。それを決める力が失われていたことは、あまりに不可解極まりない。

 しかし考えてみれば、シナ事変は、参謀本部第一部長だった石原莞爾が反対していたにもかかわらず拡大していった戦いであった。とすれば、終わるときにも参謀本部に発言権がなかったといわれればそれまでだ。そこを含めて、当時の陸軍はまったく統制を欠いていたといわざるをえない。

 結果論からいえば、石原莞爾は満洲事変直後に統制違反で退役させて、貴族院議員にするか、どこかの大学教授にでもしておけばよかったのかもしれない。ああいう人物を軍隊に置いて出世させては危険である。満洲の一件はファインプレーだったかもしれないが、ファインプレーがそうは続かないのが、政治の世界の宿命であるからだ。それよりも統制違反を真似る奴が出ることが怖い。

 石原をうまく統制できる人がいたとすれば、永田鉄山だっただろうが、永田は二・二六事件の約半年前に暗殺されてしまった。

 永田が暗殺されていなかったら、東條英機はもっと早く軍中央に出てくることができて、石原莞爾を抑えることができたかもしれない。

 東條英機は石原莞爾を非常に嫌っていた。満洲事変は、当時関東軍の作戦主任を務めていた石原中佐(当時)らが中心となって立案した満蒙領有計画をもとに遂行したものだが、関東軍は事態の不拡大を閣議決定した第二次若槻内閣の意向を無視して戦線を拡大した。このとき参謀本部の編制動員課長を務めていた東條大佐(当時)は、少なくも閣議決定を守ろうとする側にいたのである。

 さらにその後、シナ事変で不拡大方針を唱えていた石原は、昭和12年(1937)9月に関東軍参謀副長に左遷されるが、そのときの関東軍参謀長が東條英機であった。もともと石原は上官を上官とも思わない性格であったし、満洲やシナに対する政策も東條と対立していたので、石原は東條のことを「東條上等兵」などと小馬鹿にし、さらに東條から徹底的に嫌われることになる。

 実際、昭和16年(1941)3月、陸相の地位にあった東條英機は、石原莞爾(当時中将)を予備役に編入している。

 それにしても、石原莞爾はとびきりの秀才だったようで、あれだけのスケールの頭脳を持った人というのも珍しい。彼は、私の母校である鶴岡市の旧制鶴岡中学校の先輩だ。陸軍大学を二番で卒業するほどの秀才だったが、実は本当は一番だったのに、あまりにも傲岸不遜なところがあるため二番にしたとも伝えられる。

 結局のところ、石原莞爾のようなクセの強い才人をどう使いこなせるかが、国家、あるいは組織の力量なのかもしれない。このような人物にどう対応するかということが、実は国家の運命にも関わる重要な問題をはらんでいたと思えてならないのである。
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