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孝明天皇を盾にした過激な攘夷論がもたらした京都の変化

幕末長州~松下村塾と革命の志士たち(09)長州藩の反幕意識

山内昌之
東京大学名誉教授
情報・テキスト
孝明天皇
吉田松陰亡き後、長州に残された弟子たちがその衣鉢を継ぐには、幾つもの障害があった。桜田門外の変の後、いったん「公武合体」論によって融和しようとした幕府と朝廷は、「攘夷」の一点で互いに譲れなかったからだ。政局は二転三転を繰り返し、幕末と維新が近づいてくる。(シリーズ講話第9話目)
時間:09:45
収録日:2014/12/24
追加日:2015/03/01
タグ:
≪全文≫

●安政の大獄後の『留魂禄』の行方と井伊直弼の運命


 こんにちは。前回では、安政の大獄により悲劇の死を遂げた吉田松陰の最期の様子と彼の志、そしてその遺言を人々に伝えた『留魂録』について触れた次第です。

 松陰は、『留魂録』の写しを幾つか作っていました。その一つが、同獄にあった沼崎某の手に渡ります。この人は三宅島あたりへ流されたのですが、赦免により帰ってきた時に、元の松陰の弟子の一人にそれを届けます。これにより、写本の一つが伝わったと言われています。

 このように、松陰は井伊直弼による安政の大獄で無念の死を遂げたのですが、井伊直弼もいいことばかりではありませんでした。ご案内のように、桜田門外の変で討たれてしまったからです。井伊直弼も、なかなかの人物であったことは間違いありません。生き方や主義、主張の違いなどはあっても、やはり当時の日本が生んだ傑出した人物でした。しかし、彼が桜田門外で水戸浪士たちによって討たれたことは、すでに触れた通りです。


●幕府の「公武合体」策、長州藩の「航海遠略策」


 文久年間に入ると、幕府は京都の朝廷との間に融和を図ろうとします。それが、「公武合体」策です。「公」は公家の「公」で京都、「武」は武士の「武」、すなわち、江戸です。この「公武」の融和と合体によって、日本の危機を救おうとする議論が浮上してくるのです。

 これを背景にして、長州藩は藩論を公武合体論に統一し、京都へ次々と入説の士を送り込みます。朝廷との関係を深め、幕府に対して影響を与えながら、日本政治の主導権を握ろうとしたのです。その中心人物が、「航海遠略策」を唱えた長井雅楽 (ながいうた)という長州藩の新しいリーダーでした。この人ももとより大組(上士階級)出身のエリートでした。

 長井雅楽の唱えた航海遠略策は、積極的な開国策で、外国との交易を通じて国の富を増やすという非常に合理的な論です。実際、結果的に後の明治新政府は、この航海遠略策に近い考え方を採って外国との通商貿易に当たり、国富を増していくことになります。

 しかし、当時において公武合体論は、非常に妥協的かつあまりにも穏健であると考えられました。下級武士たちや非常に過激な脱藩浪士たちからすれば、屈辱的で妥協的な論として幕府を批判する根拠となります。


●松陰の論と似た長井の「航海遠略策」をかき消した島津久光の「率兵入京」


 しかしながら、航海遠略策は、以前にもお話しした松陰の「大攘夷」とも言うべき考え方と、根本的に非常に似通った部分が多かったことは否めません。すなわち、吉田松陰と長井雅楽はいずれも、「究極的には日本を開国し、国の富を豊かにする。それによって外国と競争しなければ、国が滅亡する」という危機感を現実的に持っていたからです。この点で、名前は違っていても、二人の論は変わりないと思われます。

 ところが、この頃の長州藩は当時最大のライバルであった薩摩藩との間で、苦杯をなめることになります。文久2(1862)年に、薩摩藩主・茂久の父であった島津久光が、兵を率いて京都に入ったからです。「率兵入京」といわれるもので、これによって薩摩藩が朝廷の信任を得たことから、長井雅楽の唱える航海遠略策、ひいては長州藩の影が薄くなりました。

 一方で、松陰の考え方を純化した形で継承した松下村塾の人々には攘夷論者が多く、彼らはやがて少しずつ藩内への影響力を持ち始めます。この藩内勢力は、遠略策を幕府におもねる妥協案と考え、批判します。やがて長井は失脚に追い込まれ、自決することになります。


●孝明天皇を盾にして「破約攘夷論」に藩論を大転換した長州藩


 長井の失脚とともに、長州藩の内部では、吉田松陰のある面を極大化した考え方がイニシアティブを取っていきます。それは「破約攘夷論」と呼ばれるもので、日本政府とも言うべき江戸幕府が結んだ諸外国との和親条約を破棄して攘夷を決行しようと主張する考えでした。この破約攘夷論によりイニシアティブを取る人物たちの中にいたのが、高杉晋作や周布政之助といった人々です。

 この強硬論は、京都においても公論(朝廷の考え方)を一新させた攘夷論の徹底化と相まって、多くのところで支持され、共鳴されます。長州藩は、幕府でなく朝廷を第一に考えるべきであると藩論を大転換したのです。

 孝明天皇は、夷狄(外国人)が禽獣(動物)にも等しい顔を持つ人間であるかのように描かれている絵を信じ、「このような紅毛・野蛮の輩を、皇祖皇宗から受け継いだ皇国の国土に入れるわけにはいかない」とかたくなになってしまうほど、徹底した保守的攘夷論者でした。こうした天皇や朝廷の外国に対する偏見や思い込みを盾に長州藩は、幕府から政治のイニシアティブを奪い、尊王攘夷論を反幕の武器として、ますます強く主張...
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