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西郷隆盛や大久保利通など諸藩も優秀な人材育成を始動

幕末長州~松下村塾と革命の志士たち(01)世界史の中の幕末

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授
情報・テキスト
日本の近代は、「黒船来航」を契機に動き出した。しかし、それは突発的な事件ではなく、起こるべくして起こった歴史の必然だったのだ。幕末の日本と世界の歴史的状況を結んで語る歴史学者・山内昌之氏の幕末長州に関するシリーズ講話第1話目。
時間:21:53
収録日:2014/12/15
追加日:2015/01/04
≪全文≫

●日本の近代の始まりを世界史的視点で考える


 皆さん、こんにちは。今日は、幕末の日本がいかにして近代化と産業化に成功したのか、つまり、日本が明治という時代をいかにして迎えたのかという点について、少し考えてみたいと思うのです。

 2015年のNHKの大河ドラマは、吉田松陰とその妹の家族を扱うと聞いています。もちろん、明治維新の達成にとって、吉田松陰の果たした役割が大きいことについては言うまでもありません。しかし、そうした吉田松陰の力の背後には、彼を生んだ長州藩、あるいは長州の風土がありました。

 そうした点を中心に、日本の近世の終わりと、近代の始まりという点を含めて、世界史の中でも問題を考えてみたいと思います。


●同時期に起こった西のクリミア戦争と東の黒船来航


 ご承知のように、幕末の危機、そして日本の大きな変動は、嘉永6(1853)年のアメリカのペリーの黒船の来航によって始まることになりました。この1853年は、ヨーロッパ、世界史などを念頭に置きますと、クリミア戦争がオスマン帝国において繰り広げられる時と全く同じです。

 つまり、中東のオスマン帝国はイギリスやフランスの力を借り、そのことによって大きな貸しをつくってロシアと戦います。そうした危機が西の方で進行している時に、東の方においては、日本というアジアの国が、アメリカという強大な西欧列強の一つによって開国を迫られるという状況が生まれていたということになります。

 したがって、黒船来航による日本の危機とは、同じアジアの西端にある帝国であったオスマン帝国、トルコの危機とも共通する面を持っていたということを、まず世界史の上で念頭に置かなければなりません。

 それは端的に申しますと、世界資本主義産業革命によって巨大な力を得た国々、つまりイギリスを筆頭にした西欧や北米のアメリカ合衆国といった国々が、世界市場を求めて、未知の国や土地に進出しようとする現象です。これが19世紀の30年代から50年代にかけて顕著に起きてきたのです。


●世界の動きを早くから認識していた吉田松陰とその背景・長州藩


 そういうことを念頭に置きますと、幕末動乱というものが、世界史と非常に深く結びついていたということにお気づきになると思います。こうした点を早くから認識していた日本の思想家であり、行動的な政治の活動家であった人物、それが吉田松陰ということになるのです。

 特に、吉田松陰が生まれた長州藩は、後に薩摩藩や肥前の佐賀藩と並んで西南雄藩と語られ、そして、四国の土佐藩なども含めながら、これらの四つの藩が幕府を倒していく原動力になるのです。

 そういう中におきまして、吉田松陰は松下村塾をつくり、多くの青年たちを育てることによって、明治新政府のリーダーになるような人材を育てたのです。(ちなみに、最近では、「しょうかそんじゅく」と読まないで、「まつしたむらじゅく」と読む人もいるというのですから、少し驚きでありますが)

 今回のシリーズでは、この吉田松陰の生まれた長州藩が、いかにして倒幕、反幕へと走り、舵を切り、明治維新を目指すことに成功したのかという点について述べたいと思います。また、松陰や、来年には日本の国民のかなりの人が見ることになる大河ドラマなどを理解し、そのことによって、日本の近代を改めて考える上での大事な点について、少し指摘しておきたいと思います。


●武士階級のみならず一般庶民にも大きな脅威を感じさせた黒船来航


 まず、幕末の変動、動乱の始まりとは、先ほど申したペリーの黒船来航がきっかけと言われます。しかし、具体的にどのような変化が起きたのかということについて、まず簡潔にまとめてみたいと思うのです。

 嘉永6(1853)年にアメリカ合衆国のペリー提督の率いるアメリカの東インド艦隊(太平洋艦隊)が日本の浦賀に来航した時、この事件は「黒船の来航」と呼ばれて、日本の国民を驚かせます。鎖国の時に日本は大きな船をつくることを禁止されていましたが、見たこともない大きな船で、ましてや、それが黒い煙を吐いて自由自在に逆風もものともせず動きまわるというさまを見て、驚いたのです。こうした黒船、蒸気船を見た驚きに、そもそも幕末における日本人のショックというものが象徴されているのです。

 もちろん、日本の近海に黒船、あるいは異国の船が現れたのは、何もこの時が初めてではありません。徳川幕府はそもそも19世紀の初頭から、しばしば日本の北辺に姿を見せるロシア船への対応に苦慮していましたし、またイギリスやアメリカの捕鯨船も折々姿を現していました。

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