●日本をはるかに上回る最先進国!?
島田晴雄です。
今日は、皆さんとやや変わったテーマを考えてみたいと思います。それは、東南アジアでキラキラ輝いている国、シンガポールです。
なぜシンガポールについて考えたいかと言うと、皆さん、ご存知でしょうか。かつて日本は、一人当たりの国民所得が世界で一度トップになったことがありますが、シンガポールはいま、日本よりもおそらく3割から4割高い一人当たり国民所得を実現しています。そういう意味では、日本をはるかに上回る最先進国になったとも言えるのです。
●たった20年で奇跡の急成長を遂げ、世界を驚かせた
この国は、国土が淡路島くらいの小さい島で、人口は550万くらいです。そして、実は水が十分に出ず、農業生産ができず、食料も供給できないという、大変不利な条件に囲まれているのですが、そんななかでの目覚ましい経済発展ということで、これは世界の不思議といいますか、驚異的な成果の一つなのです。
かつて日本も、「世界の奇跡」と言われるほどの高度成長を1960年代から70年代に達成した経験があります。一方、シンガポールは、特に1980年代の後半から20年くらい、日本が「失われた20年」と言われている時代に、急激な成長を遂げ、世界のリーダー国になりました。
この「東洋の宝石」のようなシンガポールという国がどうしてそうなったのか、どういう状況にあるのか、ということを、今日は皆さんと考えてみたいと思います。
私はシンガポールへ数回行っていて、実は数週間前の、暑い夏が終わったころにもシンガポールを訪ねました。それ以前は10年以上前に何回か行っていますが、この間に本当に大きく変化しており、それはまさに目が点になるような思いです。
では、どうしてそのような大変な成果をこの小さな島で上げることができたのか、はじめに少し歴史的な経緯をたどってみたいと思います。
●イギリスの戦略的拠点となった植民地時代
西欧諸国がアジアを植民地化した時代がありました。いまから200年、300年前のことです。
17世紀から、18~19世紀にかけて、フランスはベトナムとカンボジアを、オランダはインドネシアを支配します。そういう状況のなかで、イギリスはマレー半島の突端の小さい島に目を付けたのです。
当時、イギリスは東インド会社という会社を営んでいました。そこに(トーマス・)ラッフルズという人がいたのですが、その人が「この小さな島は戦略的な価値がある」ということで、現地の人から土地の使用権を得て、そこはやがて軍事的な大拠点にもなるのですが、一歩一歩イギリスの戦略的な拠点を構築していったのです。
ということで、イギリスには、シンガポールを一つの踏み台にし、太平洋に大きく進出したという経緯がありました。これは、商業活動でも軍事活動でもシンガポールを重要な拠点としたということです。
●第二次大戦時、マレー半島侵攻により日本軍の支配下となる
ところが、第二次大戦が始まる頃、世界は非常に風雲急を告げたのです。
その頃、日本は、「大東亜共栄圏」という考えを持っていました。日本の軍部は、それまで数百年続いた西欧社会によるこの地域の植民地体制を覆して、「アジア民族と一緒に日本が大東亜共栄圏をつくる」という大構想を描きます。今から思えば、問題含みの構想なのですが、当時は軍部が中心になってやろうということだったのです。そのため、大東亜共栄圏を構築するのに一番目障りなのが、シンガポールだったのです。
そこで、日本軍は、シンガポールをどう攻略しようかと必死に考えたようです。シンガポールはイギリスの鉄壁の要塞ですから、簡単には近寄れません。パール・ハーバー攻撃は1941年12月8日ということになっていますが、それよりも前に、日本軍は、その北にあるマレー半島に航空部隊を送り、自転車(と兵士)をたくさん送りました。その部隊は、銀輪部隊と呼ばれ、マレー半島の東と西の海岸をどんどん南下し、シンガポールに近寄ります。これに55日かかったそうです。
それで、とうとうマレー半島の突端まで来て、海を越えればシンガポールだというときに、この軍を率いた山下奉文将軍は、ジョホールという場所にある大きな宮殿で7日間ばかり熟慮します。そして、そうしながら、一方では陽動作戦をとり、鉄壁の要塞にあったイギリス軍の注意を片方に向けさせ、虚を打ってシンガポールの北の断崖を登っていきます。つまり、シンガポールの北の裏側から侵入したのです。
シンガポールは、前方が大きなマラッカ海峡になっています。マラッカ海峡というのはインド洋から太平洋に出てくるときの一番重要な海峡で、日本から見れば、ヨーロッパから物を輸出入する生命線で、軍事的にも要所になるところです。
このマラッカ海峡に向けて、イギリスは、巨大な大砲...