●オスマン帝国の「オスマン」とは王朝の名前である
「オスマン帝国とは、何か?」とお尋ねが寄せられたようです。なかなか難しい質問ですが、これは大変良質なお尋ねだと思います。私も一言でお答えするのは難しいと思い、この回を設けました。
「オスマン」は、民族名ではありません。地名でもありません。もともとこれは、「オスマン朝」という王朝の名前なのです。王朝名ではありますが、本来はトルコ人であったオスマン帝国のつくり手たちは、帝国をつくることによって、自分たちの持っていた民族性を次第に薄めていくことになります。
なぜ、薄めたのかというと、オスマン帝国では、帝国を率いるエリートの出自を問わなかったからです。ボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアの出身でも、コーカサスの方のチェルケス人やグルジア人でも、今問題になっているクリミア・タタール人やウクライナ人、ロシア人といった人びとでも、イスラーム教徒としてムスリムに改宗すればよかった。改宗することで、軍人・官僚としてエリートに登用される道を開く人材開発システムを体系的につくった国家だったのです。
●出自を問わずエリートになれたオスマンのシステム
そうすると、彼らにとって帰属する対象は、トルコ人であるとか、あるいはクロアチア人やグルジア人であるという民族性ではなくて、オスマン王朝にとっての忠実な官僚・軍人という役割になります。そのような意味で、彼ら自身は意識していなかったけれども「オスマン」のアイデンティティを持ったと、お考えになってはどうでしょう。
もっと擬民族的・擬人的にいえば、「オスマン人」の言い方もできなくはありません。しかし、この時代には「オスマン人」といった近現代的な民族アイデンティティは、まだ成立していません。ですから、強いて言うとすると、彼らのアイデンティティは「ムスリム」であるとなります。
ムスリムになったクロアチア人やボスニア・ヘルツェゴビナ人、あるいはグルジア人やウクライナ人たち。中にはコーカサスのさまざまな民族、チェルケス人たちもいた。スラブ系の人たちも、バルカンの人たちもたくさんいた。こういう人たちが、帝国共通の人材開発路線で、エリートとして昇進していきました。
●平時は行政、戦時は軍隊の優秀性に表れる人材開発成果
このように人材開発に優れていたトルコ人でしたが、その人材開発への凝り方については、「さながら骨董や名陶を嗜むのと同じような喜びを感じた」という言葉を、昔のヨーロッパ人が残しています。人材登用が帝国を支え、帝国を繁栄させていった非常に重要な要素であったことは、間違いありません。
トルコは、よく優秀な軍人たちによる「軍事国家」と言われます。装備と整備の行き届いた精強な軍隊を中心に語られることが多く、それはもちろん否定できません。優れた軍事力によってバルカンを北上し、ドナウ川に迫り、ウィーンを包囲した。また、あるときはカイロを征服し、バグダットを征服した。否定できない事実なのですが、しかしこれらはある意味、人材開発が成し遂げた成果なのです。
人材開発により、多くの民族出身者を育て、育てた人材を官僚や軍人に登用していく。それは、行政システムにおいては、平時の統治システムを有効に機能させることを担った官僚の優秀性として表れます。また戦時においては、軍隊・部隊を担い、指導していった軍人の優秀さに表れます。
●人材登用と宗教への寛容がオスマン帝国繁栄の秘密
いずれも、バルカン半島やコーカサス出身の人たちがかなりの部分中心になってつくり上げた、共生システムと軍人システムのたまものだったことになるのです。従って、もし「オスマン帝国の最も優れた点を一つあげよ」と言われますと、私は「人材開発のシステム」と答えます。
多くの優れた人間を、民族や地域の差にこだわらずに登用したこと。ただし条件はあり、それは基本的に「ムスリムになる」ことによって得られました。
しかしながら、もう一つ付け加えると、仮にキリスト教徒であってもオスマン帝国では能力を発揮することができました。例えばアルメニア人やギリシャ人たちは、それぞれ得意な分野である商業・金融・為替などの領域において、才能を発揮していきました。それもまた「人材登用」といえば人材登用であり、商工業や金融業の領域で成功していったのです。
このようなかたちの、人材の多面的な活用と宗教に対する寛容性の中で、帝国は維持されました。これが最盛期から繁栄期における、最も成功したオスマン帝国の秘密ではなかったかと思われます。