●快楽ほど有害なものはない――大カトーが元老院から追放した男の教訓
―― 続いて第3の理由は「老年には快楽がないのは本当か」として、快楽について論じています。快楽がないから「嫌だ」「さびしい」ということに反駁していくのですが、ここにもいろいろなことが書かれています。2つ読みます。
「青年時代の悪徳の最たるものであった、まさにそのもの(=快楽)をわれわれから取り去ってくれるとは、歳をとることの何と素晴らしい賜物ではないか」
「タレントゥムのアルキュータースは常々こう言っていた――。
自然が人間に与える病毒で肉体の快楽以上に致命的なものはない。この快楽を手に入れるために、飽くことをしらぬ意馬心猿の欲望がかきたてられるからである。
人間にはまた、自然からというか神様からというか、精神にもまして素晴らしいものは授けられていないのだが、この天来の賜物にとっては快楽ほど有害なものはない」
ここで述べられているのは「快楽がなくて嫌だ」と言うけれど、そもそも快楽は害毒なのだからないほうがいい、という話だと思います。やはりストア派的な考え方が影響しているのでしょうか。
本村 よくストア派は「禁欲主義」、エピクロス派は「快楽主義」と訳されますが、両方とも基本的には「自分を解放する哲学」です。この「解放する」は、大きなところでは「欲望」です。一番の典型が性欲で、他に名誉欲や金銭欲などもあります。
それらに対して、ある程度、距離を置く。まったく斥けようとすると無理が生じる。キリスト教などでも最初の頃、みんなで洞窟に行って修行することで、肉体的な欲望を全部消し去ろうとしました。でもそれを何人の人ができるのか、という話です。
特に若いときは、肉体的な欲望が強いのは当然のことです。ただ、それを自制する気持ちを身につけることが一番大事で、「自分の欲望のまま」となれば、それは害毒になるし、自分にも害が及びます。
若いときは、どうしてもセルフコントロールが欠けがちです。歳をとると、そこから自然に解放されるところもあるから、それはそれでいいではないかと。だから、ストア派にもエピクロス派にもあった自分自身が解放される感覚を、哲学の基本とするのです。
人間を非常に大きく縛っているのが快楽や欲望だから、それを拭い去ってくれるも...