●老年になって味わう農夫の喜び
―― (老年期の)喜びとして、もう1つキケロが挙げているのが農夫たちの快楽です。いくつか読んでみます。
「今度は農夫たちの快楽に移ろう。それは信じられないくらいわしには楽しいもので、いかなる老年によっても妨げられぬし、賢者の生き方にさも近いとわしには思われるものなのだ」
「大地は決して出費を拒まないし、受けとったものを利息なしで返すことも絶えてない。」
特に「葡萄づくりの楽しみに飽きるということはない。」
施肥の効果、羊の放牧、蜜蜂なども楽しい。田舎に住んでいて、畑を耕している元老議員の話。老人には畑仕事以外には骨牌と骰子を残してくれればいい。入念な園をつくる喜びは老年に許されている。
「マルクス・ウァレリウス・コルウィーヌスなどは、既に十分に人生を生きた後で農地に住んで耕作に従い、百歳まで熱中し続けた」
かなり具体的に書いていて、当時の貴族などは自分の農園があり、農園が身近ということもあるのでしょう。先生はここに書かれている農夫の喜びをどのように感じられますか。
本村 家人が家庭菜園をやっていたので私も少し手伝ったことがありますが、狭い領域の中でも1年たつと、いろんなものができます。2人家族なら、それを食べるだけで十分というぐらいです。
まして大きな農園なら、いろんなものがあります。だから手をかけたものが、必ずどこかで戻ってくることを知っている。人間のやりとりでは、手をかけても戻ってこないことのほうが多く、それがためにいろんな苦しみや嫌な思いをします。これは生き方のすごく大事なところに関わる話なので、またあとで言います。
そういう意味では、農業はかけた努力がそのまま返ってくる。だからこれを楽しみにしていれば、本当に楽しいのではないか。農夫がここに楽しみを持てるなら、元老院議員もある程度年齢が行ったら、現役は退いて今度は農園で仕事をすればいい。
今まで奴隷たちに任せていた仕事を自分でやれば、またそこに楽しみを見いだすことができます。それはアンテナなり、センスなりの問題でもあります。
―― 「農地はこちらが出したもの、農地がそれを受け取ったものを利息なしで返すことはない」という表現があります。まさに今、先生がおっしゃった話ですが、ローマ社会でも当然、...