●素読には心の言葉を刻印する学習効果がある
もう一つ特性として触れておかなければいけないのは、「素読」です。これは、早い子は3歳くらいから、今の時刻でいえば7時、あるいは、7時半という朝早い時間に、町内の長老、あるいは、自分の親やおじの元に集まって素読をするのです。素読とは何をすることか、簡単にいえば、四書をしっかりと皆で読むということです。
素読の効果については、いろいろな書物で散見することができます。たくさんありますが、一つ目は、言葉の響きとリズムを反復・復誦することで得られる効果です。何度も何度も読むのですが、そうすることによって、いつも自分が使っている言葉とは次元の違う言葉、あるいは、日常の会話とは全く違うジャンルの言葉、つまり、心の言葉、精神の言葉というものを幼い魂に刻印するという学習効果があるわけです。したがって、これを素読によって3歳から15歳くらいまで何年も何年もずっと行うのです。
●素読は聡明な人間になるための訓練
ここで少し申し上げておかなければいけないことがあります。目読についてです。これは明治になってから使われ始めた言葉で、それまで日本では、書物を読むというと皆、音読が普通でした。
なぜ音読が重要なのか。素読が重要なのか。要するに今、われわれは声に出して読んでいる人はいませんね。それは、都市生活を考えれば、そうなってしかるべきかもしれませんが、音(声)に出して読みますと、自分の声を耳で聞くわけです。書物は、目で読むものだと私などは思っていましたが、江戸期はそうではなく、耳で読むものでした。要するに、自分が声に出して読めば、ちゃんと耳が聞いているのです。したがって、耳と目で読むことが大切な書物の読み方で、よく読み、よく見ることを「明」、よく聞くことを「聡」と言い、これをしっかりと訓練した人間が「聡明」な人間になったのです。素読はその訓練にもなったわけです。
●素読によって違いを恐れない人間になる
それから、三つ目の効果としては、多くの人、例えば、性格の違う、あるいは、天性、天分の違う、それから、環境の違う子どもたちと読んでいく中で、そういった違いを超越した何か人間の魂の響きのようなものを毎日感じるようになることです。そうすると、人間にはいろいろな違いがあるけれど、それを乗り越えることの素晴らしさ、すごさというものを子どもが体得するようになります。そして、違いというものを恐れない人間になるのです。これは今、まさにグローリゼーション、ダイバシティーということが叫ばれている状況の中で、非常に重視する事柄ではないかと思います。
●素読によって共鳴・共感性をもたらす
さらに、素読には、もう一つ大切な要点があります。例えば、最近、方言が薄まってきたといわれていますが、今も何何弁といった方言はあるわけで、何かのときに出身を聞いて自分と同じ地域であったり村であったりすると、方言がぱっと出てきて、方言でやり取りしているうちにとても打ち解ける、いってみれば、心から融合するような、そういう感覚になるのが言葉の作用なのです。
全く同じことが素読でもいえるのです。幼い頃に読んだ『論語』や『孟子』の一節などを唱えることによって、「いや、私もその言葉は子どもの頃に気に入ってね」となって、すぐに打ち解け、心の交流ができるようになるわけです。ですから、幕末の志士なども皆、何かというと「至誠にして動かざることなし」という『孟子』の名言がほとばしり出るのは、幼い頃からの自分の知識というものを確認し合う、あるいは、「君もそうか」「私もそうだ」という共鳴・共感性を発揮し合うということで、素読にはそういう効果もあったわけです。
●江戸期は社会全体が教育環境だった
さらに、地域の偉人伝や賢人伝というものを非常に重視しながら、皆で素読しました。そういう偉人、賢人が書いた書物を全員で読んでいったわけですが、そういうことにも素読の効果があったと思われるのです。
自分と同じ村から出た偉人、賢人の文章を読むことがどれほどすごいか、ということも含めて、もう一つ今日のテーマであり、とても重要なことなのですが、教育とはご承知の通り教育の場があり、そこに教師がいて、テキストというものがある。ですから、教育を考えるときの三拍子は、学校、あるいは、教室、それから、教師、テキストだと思います。
ところが、江戸の教育をもう少し俯瞰して見てみると、とんでもない力がその教育を育んでいる、守っている、促進させている、大切に包み込んでいるという気になって仕方ないのです。それは、以前申し上げたように、子どもは社会の宝物という観点から、多くの人々が子どもを特別な財産として非常に慈しんだというところにも表れているわけですが、もう...