●故・香川俊介氏の仕事
皆さん、こんにちは。
今日は、残念なことについて話題にさせていただきます。前財務次官の香川俊介さんが、この8月9日に東京都内の病院で亡くなられました。58歳の若さでした。惜しみても余りある死だという声は、いろいろなところから、さまざまな人から聞こえてきます。
香川さんは、1979年に旧大蔵省、現在の財務省に入省してから、もっぱら予算編成を担う主計局を中心に勤務され、2014年7月に木下康司さんの後任として事務次官に就かれました。香川さんは、2012年の自民党、公明党、民主党の3党合意による社会保障と税の一体改革の推進や、14年4月の消費税率8パーセントへの引き上げなどに力を尽くした人でした。
●優れた能力と人柄-日本の将来を憂えた人
増税は、政治家と国民には大変不評であり、かつ不人気な政策です。特に消費税の値上げともなると、もろ手を挙げて歓迎する人は極めて少ないでしょう。しかし、実質的に破綻国家となり、最近話題になったギリシャよりも財政状況の悪い日本において、誰かが国の未来や子孫の歴史を見据えて、消費税について取り組まなければいけない。次なる課題として、消費税の10パーセントへの増税の必要性を分かりやすく説明しなければなりませんでした。
香川さんは、その包み込むような人格的な温かさや、難しい問題を分かりやすく説明してくれる能力において、私が思うに、一頭地を抜いた存在でした。生前、香川さんとの個人的な会話や研究会などでの触れ合いにおいても、私が魅せられたのはその頭脳の明晰さにもまして、誰をも分けへだてしない人間的な温かさ、誠実さでした。税金だけではなく、そもそも日本はこれからどうなるのかといった日本の将来や国のあり方について、総合的に心から憂えた香川さんは、歴史や政治外交についての私の意見も、静かに、そしてじっくりと聞き、感想を的確に述べてくれました。
●歴史的共通点をもつ香川・川上・田村
香川さんの58歳という早すぎた死を歴史的に思う時、私はすぐに、明治時代に生まれた二人の人物を思い浮かべます。それは、川上操六と田村怡与造という二人です。この二人は、それぞれ50歳と48歳の若さで死を迎えました。二人とも軍人であり、香川さんは文官であるという大きな違いはあります。戦後生まれの昭和人である香川さんと、明治に活躍した軍人を比較することをいぶかしく思う方も多いかもしれません。しかし、歴史家として私は、それでもこの三人にはある共通点があると考えました。
薩摩出身の川上操六は、明治26(1893)年10月に当時の日本陸軍参謀本部次長に就任し、日清戦争の開戦に大きく関わった人物です。しかし、何よりも川上操六は、明治31(1898)年1月に参謀総長となって、やがて必至と見られた日露戦争の備えをする、そうした運命を担っていました。けれども、この川上は、激務の高じたあまりに、翌年の明治32(1899)年5月に満50歳で亡くなったのです。
この後を託されたのは、現在の山梨県である甲州出身の田村怡与造でした。田村は、その出身地の英雄であった武田信玄になぞらえて「今信玄」とうたわれた人物でした。田村は、明治32(1899)年1月に参謀本部第一部長、すなわち作戦部長となりましたが、彼は、当時日本を脅かし東アジアの安全保障にとって大変な脅威となっていたロシア帝国とのありうべき戦争が想定されていた折も折、同じその年に上司の参謀総長川上操六を失うことになりました。そして、間もなく明治35(1902)年4月に参謀本部次長となります。彼自身は開戦には消極的でしたが、やむを得ずロシアとの戦争を想定して、戦略を練りました。
しかし、国がまさに滅ぶかもしれないというすこぶる強度かつ過度の緊張感と過労のために、日露戦争開戦の前年に田村は死亡しました。川上と同じく田村は、まさに頭脳を酷使しすぎ、知らず知らずのうちに病魔に侵されたものとみえます。歴史的な逸話として申しますと、田村の後任として内務大臣にして台湾総督であったずっと格上の児玉源太郎が、この参謀次長という格下のポストにわざわざ自ら願って就いたということは、あまりにも有名です。
●歴史に必要とされ、命をかけた三人の仕事
あえて申しますと、この若くして亡くなられた人々、香川さんをはじめとする三人は、国がこの人物たちを必要としたときに世に現れたということなのでしょう。もちろんこれは、人として申せばこの点は歴史的、あるいは歴史における偶然という他ありません。しかし、歴史を動かす、あるいは歴史において大きな決断をしなければいけない、そうしたときに、その大業を果たしていく直前に忽然と世を去ったという点では、共通しているのです。
彼らは、その目...