●寄付の原型
この話は、タイトルを付けると“寄付の文化を育てるには”となります。「日本には寄付の文化は育たない」「日本はあまり寄付になじみがない」という意見がありますが、必ずしもそういうことはありません。ただ今、寄付というと、もっぱら「ふるさと納税」という、納税なのか通販をやっているのかよく分からない話になります。あれは見返り、つまりいくら納税すると税が控除されてどこかの特産品がもらえるということで、一種のテレビ通販のような話が普及していますけれども、寄付とは本来そういうことでは多分ないだろうと思います。
寄付は何の見返りを期待しているのか。政治に対する寄付もそうですけれども、寄付に見返りはあるのか。その見返りとは、一番いい例が自己満足でしょうが、ある種の売名行為かもしれません。ですから、今、もっぱら寄付をした人に対する不謹慎だという批判、あるいは不謹慎自警団、不謹慎狩りを行うという、寄付をした人の足を引っ張る、攻撃をするという行為がたくさん起こっているのです。私が言う「寄付の文化を育てる」ということと逆の現象が起こっていて、非常に嘆かわしいわけですが、そもそも、見返りを期待する寄付は、寄付の原型ではないと言えます。むしろ自尊心の方があり得るでしょう。
●教会の献金にみる寄付と税金の関係
その寄付の原型を見た事例としてどういうものがあるかといいますと、それこそ昔、クリスマスの時期にアメリカの南部を歩いたときのことです。キリスト教プロテスタントのメソジストかバプテストか定かではありませんが、あまり豊かではない宗派の教会で、寄付する人が献金袋にお金を入れることはよく知られていました。私はキリスト教徒ではないのですが、子どもの頃、教会が経営する幼稚園に通っていたため、小学校半ばまで日曜学校に通ったことがあります。ですから、「献金する」ということはよく分かっているのですが、実は小切手を寄付するのです。小切手を寄付するという行為はよく分かるのですが、小切手にソーシャル・セキュリティー・ナンバー(社会保障番号)を書き込むのです。
これを見て、「あー、そうか。これで税の申告のときに控除してもらおうという一般的な風潮があるのか」と思いました。一般的な寄付と税金の関係はそうなっているのか、少額であってもソーシャル・セキュリティー・ナンバーを書き込むという習慣があるのか、そういうことに気が付いたことがあります。
●特定の研究や事業に対して行う大学への寄付
大学の話は前に申し上げました。大学に寄付をするというのは、その大学にうちの子を入れろということではなく、その大学の研究であったり、あるいは大学が行おうとしている文化事業や教育事業について一言言いたいというとき、それと関連して寄付があるのです。ですから、うちの子ども、うちの孫を入学させてくれたら対価として寄付してあげるということとは違うということを申し上げました。
相続税で税金を納めて、それが回り回って文科省の科学支援だとか研究費補助などに使われ、どこかの研究が助かるということはあるかもしれません。一方、寄付は特定の事業、特定の研究に対して支援をしたいということが可能になります。ですから、「何々大学の何々研究室が今、こんな研究をやっているから、それに寄付したい」ということが可能になるのです。これは明らかに税金と発想が違います。つまり、徴収した税金で国を運営するという財務省の発想とある意味バッティングするのです。その分だけ税収は少なくなるわけですから。ただ、その寄付によって文化研究が非常に栄えることがあります。これが寄付のいい点だろうと思います。
●寄付をもらう側にも努力が必要
今度は寄付をもらう側の話ですが、もらう側も非常に努力をしています。アメリカの大学や研究財団を運営している人などの話を聞くと、特にアメリカの大学は大変な寄付を集めています。
エンダウメント(寄付金で設立された米国の名門大学の財団や基金のこと)で、例えばハーバード大学は4兆円分ぐらい持っているなどということが言われていますし、イエール大学だったと思いますが、昔OBやOG担当のアルムナイ・アソシエーション(同門会、同窓会のこと)の人に、「なんでアメリカの大学はこんなに寄付が集まるんですか」と聞いたら、「2週間に一遍、手紙を出しますよ」ということでした。本当にそうかどうか分かりませんが、頻繁にOB、OGたちと接触をしているという努力をしているのです。あるいは、ニューヨークのメトロポリタンオペラハウスでチケットを買ったことがあるのですが、その翌年度、アメリカの大学にいた時に電話がかかってきまして、「次のシーズンのシーズンチケットを買いませんか」と言われました。一種のプロモーションです。...