●アメリカを敵に回して分かったこと
---- USTRとの戦いでは強かった日本ですが、特に自動車部品など、全盛期の日本に対して、アメリカは「何とでもなる」と考えていたわけで、そこはいわば日米間の戦ですよね。
齋藤 なんでもありでしたから、ひどかったですよ。だから、いい経験しました。
アメリカというのは、日本で見ていると、立派な国で、いい人が多いと思っていたけれども、いざ敵に回したら、とんでもなくひどい国だということが分かったのです。
第二次世界大戦関連の本に、「戦後アメリカは着々と正義の味方のようなことをやっている」と書いてあるではないですか。それは、絶対ありえないなと思いました。汚い手をいっぱい使っているに違いないし、そこは経験しているから、分かります。
---- あの時は90年代で、30何歳でしたか。
齋藤 1993年から1995年にかけてで、93年だと34歳ですね。
---- クリントン政権の頃ですね。
齋藤 クリントン政権の頃なので、34から36歳の時です。アメリカ留学から帰ってきて、中小企業庁に2年間いて、その後登用されたのです。
---- アメリカの大学へ行かれて、アメリカには、いい部分と、生々しくドロドロとした部分の両面あるということが分かったということですね。
齋藤 両面ありますね。そういう国と付き合っていくわけです。それで、今は、TPPが大変ですよ。
---- とんでもなく大変ですね。
●アメリカがかつての交渉スタイルに戻っていることへの強い懸念
齋藤 ただ、これは、だんだんtouchyな話になるのですが、今の日本政府は、アメリカに対して、少しゆるいですね。
日米通商交渉の歴史というのは、アメリカにずっとプレッシャーをかけられていて、「日本というのは、プレッシャーをかけ続ければ、最後は降りるよ」ということで、やられてきたわけです。それを、私が日米自動車交渉をやっていた、あの時代に「ダメなものはダメ」と言って、切り返す日本に変えてきたはずなのです。
---- 戦いましたものね。
齋藤 戦いました。いつまでも言われっ放しではなくて、あのときは『「NO」と言える日本』という本もありましたが、そのようにアメリカのプレッシャーとずっと戦ってきたので、最後はアメリカが降りてきたのです。
しかし、今回のアメリカの交渉態度を客観的に見ていると、かつてと同じで、「日本はプレッシャーをかけ続ければ降りるよ」という交渉スタイルです。
では、このままそれに負けていいのか、ということですよ。そういう日本から脱却しようと、僕たちは努力してきたのではないかと。ダメなものはダメだと最後まで言おうということを、今回強く感じました。
日本政府の要路にある人たちの端々に出る言葉を聞いていると、アメリカがプレッシャーをかけてくると、最後は日本がなんとかしなくては、というような空気を感じるのです。僕は当時、その中にいて、それを卒業しようと努力してきたではないかと。なのに、そこにまた戻るのかという思いがあります。
これ以上言うと、与党なのに、政権批判になってしまうから控えますが、気持ちの中にはあります。少しゆるいと。もっと戦えるはずだと。これは、アメリカのほうがきついはずなのです。チキンゲームですから。つまり、日本は顔をそむけているのです。
●アメリカから評価される橋本龍太郎氏の交渉力
---- 喧嘩慣れしている人がどれほどいるか、ということですかね。
齋藤 いなくなりました。だいぶ経ってしまいましたから。
---- 今、鈴木(英夫、現・経済産業省通商政策)局長が全面に立ってやっているのですか。
齋藤 経産省は鈴木局長だと思います。
---- 外務省は鶴岡(公二)氏(現・内閣官房審議官兼TPP政府対策本部首席交渉官)、秋葉(剛男)氏(現・北米局兼アジア大洋州局審議官)がやっているのですか。
齋藤 そうですね。鶴岡・秋葉ラインだと思います。悪いラインではないと思いますが、最後は政治ですね。
---- 政治家の中に、誰かいましたか。
齋藤 橋本龍太郎さんは強かったですね。交渉は降りなかったですよ。
---- 橋本龍太郎さんは、ギリギリまでやるわけですよね。
齋藤 やりましたね。だから、橋本さんのああいう戦いと今回は違いますね。ああいう戦いの中にいて、一緒に戦ってきた人間の立場からすると、今回はゆるい。
---- 最初から、とりあえずこの辺で降りようということですか。
齋藤 「お互い妥協しなくてはいけない」と言う必要ないですしね。私に言わせれば、セリフは、「日本はもう妥協するところはないが、それでもやはり成功させるために話し合いましょう」「一緒に知恵を出していきたい」と言うところです。
それを「お互い努力して妥協する位置を見出しましょう」などと...