●『国際政治』との出会いから高坂正堯先生を知る
「なぜ政治家を志したか」という話をするときには、まず大学受験までさかのぼることになります。
私は、一度大学受験に失敗をしたことがあります。これは言い訳ですが、高3まで下手な野球をやっていて、1年目も2年目も京大法学部を受けたのですが、1年目は合格できなかったのです。
なぜ1年目に京大法学部を受けたかというと、実は、私は高3までずっと理系でした。若干自慢話をすると、数学が非常に得意で、京大の模擬試験でも数学だけは偏差値80ぐらいあって、数学が好きだったのですが、理系で進みたい学部があまりなかったのです。しいて言えば医学部かなと思っていました。
父が家庭裁判所に勤めていたということもあり、家の中にはいつも法律の本が置いてありました。そういう環境で育っているので、漠然と1年目は京大の法学部を受けたわけです。
浪人をするとき、父はもう亡くなっていましたので、母を拝み倒し、1年だけ浪人させてほしいということで、予備校にも行かせてもらったのです。その分、大学に入ってからの生活費は全部自前でやり、奨学金は母に全部渡しました。
浪人中の1年間、駿台予備校京都校というところへ通ったのですが、その近くに本屋があり、勉強がしんどくなったり、現実逃避をしたくなると、その本屋に行っていました。そこで立ち読みをしていたときに出会ったのが、高坂正堯先生の中公新書『国際政治』という本だったのです。
何が良かったかというと、リアリズム、現実主義的な考え方に惹かれたのです。
それで、高坂先生はどこの先生だろうかと気になって調べて見たら、京大法学部でした。そのとき、自分自身の中に京大法学部をもう一度受ける目標ができたという思いが生まれ、なんとか2年目には合格をさせていただいたわけです。
●京大法学部・高坂正堯先生との出会い
専門は3年生からですが、2年生の時から高坂先生の授業に潜り込んでいました。あまり授業に出るほうではなかったのですが、先生の授業を受けていたのです。初めは何も分からないわけですよ。結局、2年生の時はよく分からず、3年生の時にまた同じ授業を受け、そしてゼミに入って、ようやく分かるようになってきたのです。そのうちに、国際政治、外交安全保障という分野で、将来何らかの生計を立てたいという思いを持つようになっていきました。そこで考えたのが、一つは外交官、一つは学者、一つは政治家です。
私は、幕末以降の近現代史が大好きで、近現代史を見ると、いわゆる戦前というのは、外交官が政治家になるわけです。広田弘毅とか吉田茂もしかりですが、外務大臣になったり、総理大臣になったりしています。もちろん戦後は仕組みが違いますけれども、外交官と政治家が、かなり私の中では魅力のあるものだったのです。
京大というのは、学者になるため、あるいは大学院に行くためには、専門課程の平均点が、15科目で80点以上であれば、フリーパスでいけるということで、その準備を進めたりもしていました。
ところが、あるとき、高坂先生にご相談したところ、「おまえは学者になるほど頭がよくない」と言われたのです。それから、「外交官と言ったって、きみは片親やろ」とも言われました。それと、やはりあの頃というのは、東大至上主義のようなところがあったので、どうかなというところもありました。
そうしたら、そのあと、高坂先生から「政治家も一つの選択肢に入っているのだったら、モラトリアムのつもりで、松下政経塾を受けたらどうや」と言われたのです。
●先輩・山田宏氏から強烈な刺激を受ける
当時、松下政経塾の先輩に山田宏さんという方が高坂ゼミ出身でおられました。それで、山田さんを紹介していただいたのですが、山田宏という人物に非常に強く共鳴し、刺激を受けたのです。強烈でした。今でも覚えていますが、京都で一番の繁華街である四条河原町に、今はマルイになっている阪急百貨店があり、その上の喫茶店で、山田さんと初めてお会いしました。コーヒーを飲みながら話を伺ったのですが、「前原、今からこの四条河原町の交差点で街頭演説できるか。やれ」みたいな話になり、もうドン引きですよ。そんなことをできるわけがないですしね。ともかく、そういうような方でしたので、山田さんの強い個性を感じ、非常にすばらしい方だと思いました。そういう方のお誘いもあったので、松下政経塾を受けたのです。
●松下政経塾入塾と小沢一彦氏の後押し
その後、いろんな出会いがありました。政経塾の2年目か3年目だったと思いますが、アジアプロジェクトというものがありました。松下幸之助さんが「21世紀はアジアの時代」と言っていましたので、塾生や卒業した塾員とともにシンガポールへ行き、シンガポール大学とシンポジウムを行なったのです。その...