●220人中200番台で卒業した高校生の三つの夢
―― 蒲島先生の人生そのものが、人間はあきらめさえしなければなんでもできる、可能性の追求なのだということ、逆境に耐えてこそ人生なのだという実例のようですね。蒲島先生は高校を卒業されるとき、220人中の200番台だったというくだりがありますね。そして、農協に勤められてネブラスカへ行かれる。そのあたりからお願いできればと思います。
蒲島 私は、人生の可能性は無限大だと思っています。
私が生まれたのは1947(昭和22)年で、終戦の2年後でした。父母は満州国からの引き揚げで、6人の子どもを連れていました。8人家族が無一文で日本に帰り、祖母の家に転がり込んだのです。祖母はわずか22アールの田んぼを耕す生活でした。
そこで子どもを産むのをやめておけばよかったのかもしれませんが、帰国後も3人生まれました。私は9人きょうだいの7番目なのです。当然、食糧難です。ですから私は、小学校2年生のときから高校3年生までの11年間、毎日新聞配達をして家計を助けました。
そんな事情でしたから、高校までほとんど勉強はしませんでした。高校を卒業するときの順位は、220番中の200番ぐらいでしたね。ただ、そういう学生生活とはいえ夢は大きくて、三つの夢を持っていました。
一つ目は、本を読むのがとても好きだったので、小説家になりたいという夢です。
二つ目は、立派な政治家になりたい。みんなが持つ夢でしょうけれど、本を読む中でプルタークの『英雄伝』に出会い、シーザーに憧れたのがきっかけでした。
三番目は最も実現可能性の高い夢。阿蘇の近くに住んでいましたので、「阿蘇の大草原で牛を飼いたい」と思いました。
●農業研修生の辛い日々。労働と勉強を秤にかける
蒲島 三つの夢を持っていましたが、高校を卒業する時点では夢は当然まだまだかないません。
18歳で高校を卒業すると地元の稲田村農協に入り、そこで2年間勤めました。でも、20歳のときに、「このままでいいのか。もっと違う生き方があるのではないか」と考えたのですね。そんなときに新聞広告で、日本の農業青年を2年間アメリカに送る研修生事業の募集を見つけたのです。
そこで、私は応募しました。将来阿蘇で牛を飼おうと思っていましたから、「肉牛コース」に応募して、渡米したのが21歳のときです。ところがアメリカの実習生活は、たいへんつらかった。相手が家畜ですから、365日休みがないのです。
―― 動物が相手ですものね。
蒲島 農場は町から離れていて、とても歩いていけない距離でした。車も運転できなかった私は農場の中にいるしかなく、365日間ずっとこき使われました。「農奴みたいな生活」だったと言ったりしているのですがね。農業に対する意欲も薄れていきました。
ところが、人生は何が起こるかわからない。農業研修生のプログラムの中で、3カ月間だけネブラスカ大学の畜産学科で学科研修を受けるのです。そこで私は、生まれて初めて勉強して、「勉強とは、こんなに楽なものか。勉強するだけでご飯が食べられるのだな」という発見に至るのです。
根が楽観的な私は「もっと勉強したい」と思い、大学の研修担当であるクリントン・フーバー氏に、「来年も戻ってきたいです」と言いにいきました。
「来年も大学に戻ってきたいが、そのときに通訳で雇ってもらえないか」と言うと、フーバー氏はとてもいい人で、「OK。よく勉強したね。来年は通訳として雇ってあげるから、帰っておいで」と言ってくれました。
●片道切符で再度の渡米。大学入試は側面突破へ
蒲島 2年間の研修を終え、もう一度アメリカに戻ろうという希望を持って帰国したのが23歳です。これは小さな希望でしたが、「旅費を稼がなければ」という必要に結びつきます。
そこで、名古屋で牛乳販売店をしていた義兄のところで半年間働き、40万円貯めました。アメリカへの片道運賃が35万円の頃です。24歳のときに、切符を買った残りの5万円を握りしめて、再度アメリカに渡りました。
農業研修プログラムを3カ月終えた後、ネブラスカ大学の正規コースの入学試験を受けます。アメリカの入学試験は英語と数学の2科目だけでしたが、当時の私は数学ができませんでしたし、英語も、アメリカ人が受ける英語だったため歯が立ちませんでした。
―― ネイティブな人たちのための試験だったのですね。
蒲島 そうです。試験は受けたものの奇跡は起きませんので、当然不合格。「せっかく片道切符でアメリカに戻ってきたけど、人間とは不運なものだ」と思いましたが、やはり夢に向かって一歩近づくと、助けてくれる人が現れるのです。
それが、私が通訳の相手をしていたドクター・ハドソンでした。私が落胆した顔...