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ハーバードで学んだ政治学理論を実践すべく知事選出馬

人生の可能性~学者知事が語る(2)ハーバードから熊本県知事へ

蒲島郁夫
熊本県知事
情報・テキスト
大学卒業まで農学一筋だった蒲島郁夫氏が、政治学専攻へと28歳で下した決断は、その後の人生を大きく変えていく。家族を支えるプレッシャーと大きな夢を両手に邁進する蒲島青年。さらに学者から政治家への転機はいかに訪れたか。熊本県知事が自ら語る「人生の可能性」追求ストーリー第二弾。(後編)
時間:10:29
収録日:2014/05/16
追加日:2014/07/03
カテゴリー:
タグ:
≪全文≫

●学者の道を本気で考えたら、一生の仕事は「政治学」

 
 ネブラスカ大学の畜産学部で4年間を過ごして、いよいよ卒業というときです。私の指導教授は、繁殖生理学のたいへん有名な、ドクター・ジーママンという先生でした。彼から「君は研究者に向いているから、教室に残らないか」と声をかけていただいたのです。

 教室に残るというのは、将来は学者になることです。学者になるとは一生勉強することですので、私は自分が本当に勉強したいのは何かと考えました。今まで勉強してきた繁殖生理学ではなく、小さいときに夢見た政治学を勉強しようというのが、出てきた答えでした。

 そうだった。自分は政治家を志したことがある。でも、せっかく政治学を学ぶなら、世界一の「いいところ」で学びたい。そうなると、答えはハーバード大学です。

 ところが、ハーバード大学への志を決断したのは、もう大学院の申し込みが終わっていた時期でした。そこで、次のチャンスを翌年に見据え、1年間は農業経済学の勉強をすることにしました。こちらからも声がかかっていましたので、結局ネブラスカ大学には、学部3年、大学院1年の4年間在籍しました。

●ハーバード大学政治経済学大学院への入学願書


 満を持してハーバード大学に願書を出したのは28歳のときでした。

 願書には、第一に「メイフラワー号」以来の名門出身かを問う欄がありました。当時のハーバードでは、やはり名門の出身ということが大切にされたのでしょうね。

 二番目には、家族の財産を尋ねる欄。これで、ハーバード大学が「名門で裕福」な学生を欲していることがわかります。

 三番目に、どこでも聞かれる「入学の目的」が問われます。

 私の答えは、非常に大胆でしたね。

 自分は日本の熊本県という所の小作人の息子で、財産はゼロである。ただし、子どもが2人いる。だから、奨学金がないと生計が立たない。家族4人が生活できるだけの奨学金が欲しい。

 と書いたのですが、ハーバード大学はそれを承諾して、奨学金付きで私を博士コースに迎え入れてくれたのです。

 いったいどういうことだったのでしょうか。日本から来た家族持ちの学生で、政治学を一度も勉強したことのない私を、よく政治経済学の大学院に入れてくれたものだと、ハーバード大学には今でもとても感謝しています。

●28歳からでも遅くない、夢とプレッシャーの力


 ここで、皆さんに言いたいことが一つあります。

 日本ではだいたい18歳で自分の進路を決めます。でも、私が自分の本当の進路を決めたのは、28歳のときでした。それでも、人生は長いので間に合います。夢があることが大事なのだ、と私は思います。

 さて、ハーバード大学に入って4年弱の間、政治経済学を勉強して博士論文を終えたのは、32歳のときでした。普通はハーバード大学で政治学や政治経済学の博士論文を書くには5~6年かかります。それを私は3年9カ月で終えることができました。別に頭がよかったから終えたのではなく、お金と生活の問題でした。

 奨学金の給付期間は4年間と定まっていましたから、その期間内に終えないと子どもたちが飢えてしまいます。なんとしても4年以内に終えなければいけない。これが、自分自身に大きなプレッシャーをかけることになりました。

 でも、人生というのはそういうことだと思います。ある時期、自分自身に莫大なプレッシャーを与えることによって、物事が達成できるのではないでしょうか。

●50歳と62歳。人生の大きな転機と私の決断


 卒業後は、普通の人生が続きます。33歳で筑波大学に就職して17年間、50歳になるまで勤めました。順調に講師、助教授、教授と昇任してきたのではないかと思っています。

 50歳になったときに一つの人生の転機が訪れました。東京大学の法学部から、「政治過程論(日本政治)」を教えないかという話があったのです。家族と相談しますと、「お父さん、もう筑波大学でいいよ」と言う。しかし私は17年の長期間にわたって筑波大学にいましたので、そろそろ転機だろうかと考え、東大の法学部へ移りました。

 東大法学部にいたのは、11年間。よく論文や本も書きましたし、いい学生が集まったこともあり、彼らを育てることにも力を尽くしました。

 しかし、今度は61歳のときに、また転機が訪れるのですね。「熊本県知事選に出ないか」という誘いが、いろいろな政党からありました。これは、ずいぶん悩みました。家族も同僚も学生もみんなが反対する中で、「出よう」と決めたのは、選挙にあと2カ月半という時期でした。

●政治学理論を実践するため、熊本県知事選に出馬


 私は地元熊本では無名でしたし、準備期間は2カ月半しかない。しかし、政治学を研究してきた間はずっと、政治家としてこ...
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