●ニューメディア誕生にあたり
皆さんこんにちは、島田晴雄です。
今日から、私の親友の神藏孝之さんが、ドコモ社と協力をして、私の尊敬する小宮山先生の総合プロデュースのもとで、新しいメディアを作ることになりました。
私としては、このメディアに登場するのは今日が皮切りなので、一つ皮切りにふさわしいテーマのお話をしたいと思います。テーマとしては、「ニューメディアの誕生:マルティン・ルターの宗教革命とかかわらしめて」というお話しをしたいと思います。
●マスメディアとニューメディアの違い
皆さんがお聞きになっているこのメディアは、全く新しいメディアで、私どものようなオピニオンリーダーや学者など、そういう人たちが何人か登場して、彼らが思っていることを割にしっかりと皆様にお伝えをします。皆様はそれを聞いて、それぞれいろいろとご判断をされ、勉強もされ、いろいろな感想をお持ちになると思います。
これはなぜ新しいかと言うと、マスメディアとは全く違うからです。マスメディア、特にテレビというのは何百万人も視聴者がおられて、非常に限られた時間の中でいろいろなコンテンツがあります。その中に私どものようなコメンテーターや学者やオピニオンリーダーなど、そういう人が呼ばれて、いろいろとお話しすることもありますが、大概1時間か2時間はインタビューを受けるのです。そして、さあ「来週の火曜に放送があります」と言われ、見てみますと、長くて10秒、しかもいろいろな解説がついて、話している本人は、「確かにあれは言ったけれども、全体の流れの中で一言言ったのであって、あれでは意思が伝わっていない」「それで聞いている人に事態が伝わるのか」と思うことが実は多いのです。
この、今、皆さんがお聞きになっている、ご覧になっているこのメディアは全く違います。これは、皆さんが個人個人でご選択をなさったので、多分、私はまた数分話をしますが、数分の話が終わるまで、聞いて下さるのではないかと思います。こういうことは、これまで何万人も何十万人も相手にした場面では有り得なかったことなのです。
ですから、このメディアはきっといろいろな意味を持ちます。そして、これまでは、マスメディアからしか情報を得ることが出来なかった社会が、私どものこのようなメディアから、「ちょっと違うぞ、何か深いことを聞いたぞ」「何だ、そういう体系だったのか」、というようなことにお気付きになり、得られる情報、そこからのお考えが変わってくるかも知れません。
そのような感想を持つ方が、何万人、何十万人、何百万人になられると、多分、今までと社会が変わるかも知れないという、一つの試みであると私は思っております。
●既存の制度に楔をうつ! マルティン・ルターの宗教革命
そこで、いささか迂遠の様なのですが、何百年も前のマルティン・ルターの宗教革命と似た意味があるのではないかということで、今日はそういうテーマでお話しを申し上げたいと思います。
皆さん、宗教革命のことはご存じだと思いますが、キリスト教というのは、西暦が始まってキリストが世の中に布教され、それから数百年経つと、ローマ法王庁をはじめとして強大なカソリック教の世界が出来上がったのです。それは、本当に強大な勢力になりました。
今でもバチカンのローマ法王庁というのは、世界中にそれこそ何億人も信者がおられて、大変な力になっているのです。
今のローマ法王庁は昔とは全然違いますが、昔、キリスト教にはしっかりした経典がありました。旧約聖書も新約聖書もあり、その中にそれこそ大変な知恵が収められているのです。
ところが、それがどういう形で保存され、どういう形で人々の目に留まるかということを考えますと、実は、本当にわずかな人々の目に留まることしか出来なかったのです。
というのは、キリスト教の聖書は、他の書物も皆そうなのですが、当時は印刷技術がないものですから、人々が筆写をするのです。しかも、聖書のように大切な書物は長いこと使わなければいけないので、羊皮紙という、羊の皮をなめして作った紙、紙ではないですが、皮に、鳥のペンを使ってさまざまな色で文字をぎゅうっと書いていく、そのような技術だったのです。
ですから、そういう聖書が何百ページにもなると物凄く重くて、畳半畳位の大きなものになりますので、そう簡単に持ち運べないし、開くのも大変だというような状態です。
その頃、カソリックの寺院は、全国各地に大きな寺院が出来て、人々をキリスト教の世界に導いて、いろいろ教えをのたまっておられたわけですけれど、聖書というのは、カソリックの大きな寺院の奥の一室の薄暗いところにちんと置いてあるのですが、そこに行って聖書を開けて、ラテン語などで書かれた文章を読むという...