●対象の違いからビジョンの違いが生まれる
今回の話は「ビジョンの二つの違い、見方の違い」ということに関連しまして、「なぜ、そのような違いが生まれるのか」ということをお話しします。トップアスリートを伸ばすコーチの役割と、それからお医者さんの違いという、その話に関係しているわけです。
「トップアスリートを伸ばす」とか「日本の先端的な企業、大学、研究機関を伸ばす」という話は、ビジョンを描くときに必ず出てくる話です。それと、日本がいま抱えている、例えば「社会保障費をどうやって賄うか」とか「財政赤字をどうするか」という、お医者さんとして日本を見るときは、どうしてこんなにビジョンの違いが出てくるのかという、視点や観点だけではなく対象が違うという話をしたいと思います。
非常に簡単に言うと、「トップを伸ばす」というのは、この頂点部分なのです。数でいけば、オリンピックやワールドカップに出る人というのは何万人もいるわけではありません。トップで競争できる大学や研究機関というのも何百校、何千校があるわけではなく、ほんの数校です。ですから、大学で言えば、日本にはだいたい千ぐらいありますが、その中で、少子化で定員割れを起こしている大学の話と、グローバルで世界100位以内に入りたいという日本の大学トップ20校か30校の話とはまったく違います。「国際的なグローバルな競争をして、世界で凌ぎを削りたい」という話と、「定員割れがあって少子化で大変だ」という話は、実は違うことです。
それと同じように、例えば日本では、ほとんどの小学校にプールがあると思いますが、プールが全部の小学校にあったとしても、そうしたらオリンピックの水泳選手、スイマーは世界でトップになれるかというと、それもまた違う。つまり「トップを伸ばす」というのは、「底辺を広げる」とか「基礎的に水泳ができるようになる」ということと一緒ではない。
あるいは日本のかなりの家庭がピアノを持っていますが、「ピアノがある」ということと「世界的なピアニストが生まれる」ということは、必ずしも一緒の話ではありません。
確かにJリーグのように、Jリーグがあれば頂点はかなり高くなる。その人たちがプレミアリーグに行ったり、あるいはセリエやブンデスリーガで活躍することは可能です。けれども、その人たちを伸ばすというのは、同じお医者さんで言えば先端医療のところになりますが、そうではなくて、国民全体を相手にしなければならないのがいまの医療保険、あるいは年金、介護なのです。
つまり、「一人の不幸な患者を救う」ということは、ある意味で簡単な話です。みんなでカンパをして心臓移植を海外でするとか、難病治療をどこか特別な病院でやるということはできるわけです。ところが、いまの医療は国民全体をカバーしなければならず、対象が非常に広いということです。
年金もそうです。ごく一部の人だけにお金を払ってあげればいいという話ではなくて、所得の高い人から低い人まで全員をカバーしている制度です。そうすると、その費用負担というのは大変大きくなるということです。
●ピラミッド型社会か、最小不幸社会か
それで、この二つの図をここに書きましたが、ピラミッド型と、もう一つは中間層が広く底辺層が少ない、こういう二つのタイプがあります。例えば、最小不幸社会。「一番不幸な人をなんとか助けてあげたい」「それが政治の役割だ」という主張もありますし、あるいは、哲学のなかでも格差原理というロールズ的な議論もありますが、いずれにしても数のことを頭に入れると、現実は非常に難しいし厄介です。
それはなぜかと言うと、一人、二人の話を救うシステムというのは、これは寄付でもできるし、ボランティアでも可能ですが、社会全体の話で、その社会全体が高齢化し、費用がかかり、医療費も多くなるということになると、基本的にはそれは保険でやるか税でやるしかないのです。言ってみれば、リスクをどう分担し、負担をどう分担するかということになります。
ここの部分の数の多さということをどう頭に入れてビジョンを描くかということですが、そうすると全体に話が暗くなってくる。片方の「頂点を伸ばす」という話は、「ごくごく少数者を世界で競争できるようにするためにはどういう戦略が必要なのか」ということですが、こちらのほうがむしろビジョンとしては楽観的で、楽しく、夢のある話をしやすいということです。
●対象やその絞り方、焦点がビジョンを描く際に重要
ただ、この二つがいま日本には混在していて、この二つの混在ということで、日本社会を描くときに、あたかも日本全部がトップであるがごとく考えてしまう人がいる。あるいは逆に日本のトップが、この日本社会が抱えている一種の社会制度そのものが、高齢化してしまって成人...