●官僚・実業・政治、三拍子そろったジェネラリスト
齋藤 原敬という人は、ジェネラリストの指導者であったわけです。
まず官僚は15年経験して、今で言うところの外務事務次官まで、官の世界で上り詰めています。彼は実業界にもいたことがありました。古河工業の副社長や北浜銀行の頭取など、実業界でもトップまで上り詰めているのです。
そして、さらに本業である政治の世界では、立憲政友会という政党の第3代の総裁になっています。政友会では、第1代総裁が伊藤博文、第2代が西園寺公望と、明治の大立者や文字通りのプリンスである貴族政治家が続きました。で、その後に賊軍である南部藩出身の平民が総裁になる。ということは、政治家としては上り詰めているだけでなく、超一流だったということです。
●メディア人としても一流、司法から方向転換し猛勉強で外交官に
齋藤 さらにマスコミの世界にもいて、大阪毎日新聞の社長を3年やっていたはずです。その間、売上を2~3倍に増やしたという実績があり、メディア人としても一流でした。
彼がやっていないのは司法の世界です。ところが、実は彼が最初に目指したのは司法の道でした。現在の東大法学部の前身である司法省法学校に入るのですが、途中でギブアップせざるを得ないことになってしまう。
その後彼は方向転換して、フランス語を勉強する。キリスト教の洗礼も受けるというすさまじい経験をするわけです。外務省時代にはフランスの公使館にも勤めました。そして、山縣有朋がパリに来たときには通訳をしていますから、フランス語もペラペラだったわけです。
●政治力と的確な政策を見抜く炯眼で、日本の転落を食い止める
齋藤 それだけ多方面の資質を備えた人が総理の職についていたときには、軍との関係についても、政治力をもってうまく抑え込むことができました。
進むべき政策も的確でした。「これからはアメリカの時代だ。大事にしなければならない」と対米協調路線を主張し、「中国は支配してはならない。あくまでもビジネスで付き合っていくべき」と中国の植民地化を避けるという具合で、今の見地から見ても極めて的確な政策をやっていました。
私のテーマに寄せて言うと、彼は日露戦争から太平洋戦争に至る歴史のちょうど真ん中辺りにいて、なんとか日本の転落を食い止めようと必死の努力をした人です。